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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
秤の都、整えられた世界「ヴェネツィア」 ——水辺の聖ミカエル修道院編
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第10話 - おもしろいわ!まだ誰も知らない場所

朝が早い理由は、

特別なことをするためではない。


ただ、静かな時間に出ると、

山は少しだけ本音を見せる。


ベルクは「秘密だ」と言い、

三人はついて行く。


商談でもなく、

交渉でもなく、

策略でもない。


急がない日。


それだけの話だ。


けれど、

それだけで十分な日もある。


白い花は、

説明される前に、美しい。


今回は、

それを見に行く話である。

夜明け前のフィルミアーノ城は、まだ石の色をしていた。


空は群青。

谷は霧の底に沈んでいる。


城門の前に、四つの影。


「早いですね」とエルサ。


「秘密は、昼には見せない」

ベルクは軽装だ。

昨日よりさらに簡素な旅装。

領主の鎖も外している。


「本当に何もないんだろうな」

テオドールが言う。


「ある」

ベルクは短く答える。

「だが、説明すると価値が減る」


ベアトリクスが小さく跳ねる。

「山ってもっと秘密があるの?」


「ある」

ベルクは少しだけ笑う。

「登らなければ見えない秘密だ」


四人は城を出る。


石畳はすぐに土へ変わる。

葡萄畑を抜け、

やがて道は細くなる。


空が薄くなり、

東が白む。


「急ですね」

エルサが足元を見る。


「ここからは街道ではない」

ベルクが言う。

「だから人が来ない」


「すなわち、未整備ルート」

テオドールが呟く。


「改善するなよ」

即座に返る。


ベアトリクスは笑い声を上げる。

「そのままがいいの!」


やがて谷の音が遠くなる。


川の流れは細い糸のように見え、

フィルミアーノ城は岩の一部に戻る。


風が変わる。


冷たい。

薄い。


「高度が上がっています」

エルサが言う。


「まだ序盤だ」

ベルクは振り返らない。


道はやがて岩場に変わる。

馬から降りる。


ここからは歩きだ。


ベアトリクスは息を弾ませる。

だが不思議と弱音は吐かない。


テオドールは時折、後ろを振り返る。

谷の形を記憶するように。


エルサが静かに言う。

「ずいぶんと登るんですね」


「ああ」


振り返り、三人を見る。

「登らなければ、

 自分がどこに立っているか分からん」


再び歩き出す。


空は完全に明るくなり、

山肌に金色が差し込む。


草が増え、

岩が減る。


そして、白い花が一輪、道の脇に咲いている。


ベアトリクスが気づく。

「……あ」


ベルクは何も言わない。


もう少し。


尾根の向こう側が、わずかに白い。

風が甘くなる。


「着くの?」

ベアトリクスが囁く。


ベルクは歩みを緩める。

「もう少しだ」


尾根の先は、まだ見えない。

だが、光が溢れている。

四人は最後の斜面へ足をかける。


――その向こうに、

まだ見せていない場所がある。


最後の斜面を越えた瞬間、

風が変わった。


視界がひらける。


そして――


一面が、白だった。


草原でもない。

雪でもない。


無数の白い花が、

朝の光を受けて静かに揺れている。


谷を見下ろす丘の上、

緩やかな起伏のすべてが、

白い星で埋め尽くされていた。


ベアトリクスが息を止める。

「……え……」


声が出ない。


エルサも、足を止めたまま動かない。


テオドールはただ、立ち尽くす。


風が丘を渡るたび、

白い花が一斉に傾き、

波のように揺れる。


ベルクが静かに言った。

「エーデルワイスだ」


その名だけが、丘の上に落ちる。


「こんなに……」

ベアトリクスがやっと言葉を探す。

「こんなにあるの……?」


「少ない方だ」

ベルクは丘を見渡す。

「昔は、もっとあった」


彼は腰を下ろし、

一本を手で優しく包む。

「薬用に効くと言われ、乱獲された。

 珍しいから高く売れた」


花をそっと戻す。


「だから、これだけ群生している場所は、

 今ではほとんど残っていない」


エルサが静かに息を吐く。

「守られていたのですね」


「誰も知らなければ、守られる」

ベルクは淡々と答える。


ベアトリクスはもう我慢できなかった。

「聞いて聞いて!

 こんなの、初めて!」


丘へ駆け出す。

くるり、と回る。


青いドレスの裾が白い花の中で揺れる。

「本当に……白い星みたい!」


笑い声が風に乗る。


挿絵(By みてみん)


エルサはその姿を見て、

ふっと目を細める。


「……美しいですね」

言葉は短いが、

その声はやわらかい。


テオドールはゆっくりと歩き出す。


足元の花を踏まぬよう、

慎重に。


「ないわー……」

呟く。


「何がです?」とエルサ。


「現実味がない」

丘の縁に立つ。


白い花、

その向こうに広がる谷、

遠くの雪峰。


「初めて見る風景だ」


ベルクは満足そうに頷く。

「だから連れてきた」


やがて、彼は背負ってきた袋を下ろす。


岩の上に布を広げる。


黒パン、

硬いチーズ、

干し肉、

少量の蜂蜜、

そして小さな水袋。


「秘密の場所に、

 秘密の宴だ」


ベアトリクスが駆け戻る。

「ここで食べるの?」


「ここで食べる」


エルサは膝を折り、

静かに座る。


テオドールも腰を下ろす。


四人は白い丘の上に輪を作る。


風が花を揺らし、

陽が高くなる。


パンを割り、

チーズを分け、

水を回す。


誰も急がない。

誰も語らない。


ただ、

この場所を味わう。


ベルクが静かに言う。

「戦は疲れる。

 だが、山は何も急がない」


エルサが頷く。

「急がぬものは、強いのですね」


ベアトリクスは花を見つめたまま、

小さく言う。

「ここ、誰にも教えない?」


ベルクは笑う。

「教える相手は選ぶ」


テオドールは空を見上げる。


ローマも、

戦も、

道も、

今は遠い。


白い丘だけが、

確かに存在している。


風が再び渡る。


花が揺れる。


その中で、

四人は静かに昼を分け合った。


◆◆◆


山の光は、去るのが早い。


白い丘を離れたころには、

陽はすでに傾き、

谷の影が伸びていた。


下りは静かだった。


登りよりも言葉が少ない。


ベアトリクスは最初こそ軽やかだったが、

やがて歩幅が小さくなる。


「……つかれたー」

素直な声がこぼれる。


テオドールが振り返る。

「無理するな」


「してないもん」


少し間を置いて。

「……でも、お風呂入りたい」


エルサが小さく笑う。

「それは賛成です」


ベルクも口元を緩める。

「城には湯を用意させてある」


「本当に?」

ベアトリクスの目が輝く。


「本当にだ」


それだけで、足取りがわずかに戻る。


道は再び岩へ、

岩はやがて土へ。


遠くにフィルミアーノ城が見え始める。


夕焼けの中、

城壁は橙色に染まり、

谷は深い青へ沈みつつある。


「きれい……」

今度は疲れた声ではなく、

落ち着いた呟き。


テオドールは城を見上げる。

「守るための形だな」


「住むための形でもある」

ベルクが言う。


城門が開く。

四人は中へ入る。


外の風は冷たいが、

城内は灯りがともり、

湯気が上がっている。


馬番が軽く会釈をする。


ベアトリクスは石段に腰を下ろしかけ、

慌てて立ち直る。


「だめ、ここで座ったら動けなくなる」


エルサが言う。

「本当にお疲れですね」


「でもね」

ベアトリクスは顔を上げる。

「すごかった」


その一言に、

全てが入っている。


テオドールも頷く。

「初めて見た」


ベルクは壁にもたれ、空を見上げる。

夕暮れは薄紫に変わりつつある。

「また来るといい」


静かな声。

「花は毎年咲く」


「同じように?」

エルサが問う。


「同じではない」

ベルクは首を振る。

「だが、咲く」


少し間を置く。

「急がなければ、な」


テオドールが小さく笑う。

「急がない日だったな」


「たまにはな」


城の中庭に灯が増える。


遠くで鍋の音がする。


戦も、ローマも、道も、

今はここにない。


あるのは、

疲労と、満足と、

湯への期待。


ベアトリクスが両手を広げる。

「今日は何も考えない!」


エルサが静かに応じる。

「それも、必要ですね」


ベルクは三人を見る。

「秘密は、またある」


「本当?」

ベアトリクスが振り向く。


「山は広い」


テオドールが言う。

「すなわち、改善余地あり」


「やめろ」


笑いが広がる。


夕暮れは夜へ変わる。


フィルミアーノ城は、

今日も静かに立っている。


四人は中へ消える。


山は背後で、

何も急がずに在り続けていた。

エーデルワイスは、

高い場所に咲く。


手が届きにくい場所に。


だから残る。


かつて乱獲されたと聞いても、

今ここに咲いている事実は揺らがない。


ベアトリクスは笑い、

エルサは静かに見つめ、

テオドールは言葉を失い、

ベルクは「また来るといい」と言う。


何も決まらない一日だった。


ローマの話も、

戦の話も、

道の話も進まない。


それでも、


四人の間にある空気は、

少しだけ変わった。


急がない時間は、

停滞ではない。


整う時間。

いまは、それで十分だ。

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