第08話メリサンドとエルサ短章 - 青い海の下
海が穏やかな日ほど、
人は過去を思い出しやすいのかもしれない。
戦いの只中にいるとき、
考えるのは目の前の刃と、次の一歩だけだ。
だが戦場を離れ、空が青く、波が静かなとき、
置いてきたものが、ようやく追いついてくる。
この短章は、帰路の船の上の話である。
誰もが「戻る」ことを疑わない朝に、
戻れないものを抱えた者が立っている。
海は明るかった。
空は澄み、雲は高い。
波頭は白く光り、帆は柔らかく膨らんでいる。
甲板では船員たちが陽に笑っている。
帰路の船は軽い。
エルサは欄干に手を置き、水平線を見ていた。
純白の修道服が陽を弾く。
隣で、メリサンドも海を見ている。
「良い天気です」
「ええ」
短い返答。
しばらくして、エルサが言う。
「二コラは、あの街の革の匂いに慣れきっています」
風が頬を撫でる。
「石灰も、潮も、石畳も。
離れる想像をしていない人の目でした」
「ええ」
メリサンドはうなずく。
「持っている者は、立つ場所が決まっている」
波が光を散らす。
エルサが問う。
「あなたは」
視線は動かさない。
「終わった後を、考えますか」
メリサンドは目を細める。
「『戦争が終わったら故郷に帰る』とよく言う。
私のように戦地で生まれ育った人間には、その場所がない」
空は青い。
「私はアッコンの生まれです」
少し間。
「城壁の外の井戸に、いつも水を汲みに来る子がいました。
異教徒の子でした。七つか八つ。名前は知らない」
甲板に陽が差す。
「壺を一つ、両手で抱えていた」
遠くで帆が鳴る。
「戦闘が激しくなっても来た。
軍勢が押し合い、前も後ろもわからない状態で」
波は穏やかだ。
「乱戦のさなかで、あの子を見つけた」
指がわずかに欄干を握る。
「行こうとした」
風が吹く。
「間に合わなかった」
短い。
「眠るように倒れていた。
どうして死んだのか、わからなかった」
沈黙。
「道の端に寄せた」
それだけ言う。
甲板で笑い声が上がる。
「城壁はその日のうちに奪われました。
私は生き延びた」
青い海が広がる。
エルサが言う。
「その子は、あなたにとって…」
「わかりません」
メリサンドは空を見上げる。
「私は、助けようとした」
短く。
「それだけです」
波が船腹を軽く打つ。
「帰る場所と言われても、
思い浮かぶのは井戸と、あの混戦です」
空は晴れている。
「二コラは、あの石畳を踏み続ける。
私は、踏む場所を持たない」
エルサは何も言わない。
船は順調に進む。
青い海。
明るい空。
その下で、
あの石畳だけが、
まだ足裏に残っているようだった。
メリサンドには、帰る場所がない。
というより、
「帰る」という言葉が、彼女には少し遠い。
土地に属する者は、石畳の上に立ち続ける。
だが戦場で育った者は、
踏む地面そのものが揺れている。
助けようとして、間に合わなかった。
それ以上でも、それ以下でもない。
救えなかった名も知らぬ子どもは、
物語の中で英雄にもならず、
象徴にもならない。
ただ一つの視線として残る。
それが彼女の故郷なのかもしれない。




