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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
秤の都、整えられた世界「ヴェネツィア」 ——水辺の聖ミカエル修道院編
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第08話 - だがしかし、ヴルダヴァの流れは止まらない

盾は、前に立つ。


だが、前に立つ者ほど

後ろを見ている。


敵だけではない。


味方の数も、

道の長さも、

灯りの届く距離も。


強さとは、

剣の鋭さだけでは決まらない。


どこまで繋げるかで決まる。


今宵、剣ではなく

票が語られる。

春の終わり、プラハはまだ冷えていた。


ヴルタヴァの水は重く、城の塔は低い雲を背負っている。

リヒャルトは城門前で馬を降りた。


連れているのは、護衛が四名。

旗も掲げていない。

鼓も鳴らしていない。


だが名は重い。


——神聖ローマ帝国皇帝の候補。

この肩書きだけで、城内はざわめいた。


オタカル二世は、会いたくはなかった。

だが、会わぬわけにはいかない。

皇帝の名を帯びて来た者を門前払いにすれば、

それは政治ではなく、侮辱になる。


謁見の間は広い。


石の壁に旗が垂れ、

窓から入る光が冷たい。


ボヘミア王オタカル二世は玉座に座っていた。


鋭い目。

王冠は控えめだが、存在感は強い。


リヒャルトは玉座の前まで進み、

深く頭を下げる。


「ボヘミア王陛下に、伯爵リヒャルトとしてご挨拶申し上げます」


あえて言う。

皇帝の候補ではなく、伯爵として。


オタカルは目を細める。


「皇帝の候補としてではなく、伯爵として来たと?」

声は低い。


「本日は、陛下に礼を尽くすために参りました」

リヒャルトは顔を上げる。


視線を逸らさない。

「ボヘミアは、かつて東方よりの脅威に対し、

ドイツの盾として立ちました」


玉座の間の空気が、わずかに変わる。


「タタール襲来の折、

陛下とその父君が示された奮戦は、

歴史に残る英雄的行為であります」


オタカルは無言。

だが、その沈黙は拒絶ではない。


「多くの諸侯が退き、様子を見ていた時、

ボヘミアは退かなかった」


挿絵(By みてみん)


リヒャルトは続ける。

「その事実を、私は忘れておりません」


わずかな間。


オタカルが口を開く。

「褒めに来たのか?」


「いいえ」

リヒャルトは静かに答える。

「伺いに参りました」


「何をだ」


「今後、ドイツを守るために何をなすべきか。

 陛下のお考えを」


ざわり、と空気が動く。


問いは、軽くない。

皇帝側から王へ意見を求める。

それは対等の位置を示唆する。


オタカルは腕を組む。

「皇帝が私の意見を求めると?」


「皇帝ではなく」

リヒャルトは一瞬だけ間を置く。

「ドイツの未来を憂う一人の伯爵として」


玉座の間に沈黙が落ちる。


外で風が鳴る。


オタカルの視線が鋭くなる。

「少数で来たな」


「信頼を示すためです」


「それとも、疑われぬためか」


「どちらもでございます」

即答。


オタカルの口元が、わずかに動く。

完全な拒絶ではない。


「ドイツを守る、か」

王は低く呟く。

「盾になるのは、楽ではない」


「存じております」


リヒャルトはうなずく。

「だからこそ、陛下の考えを知りたいのです」


沈黙。


長い沈黙。


オタカルは立ち上がらない。

だが、退席も命じない。

「話を聞こう」


それは許可であり、

試練でもあった。


リヒャルトはゆっくりと息を整える。

玉座の間に、重い沈黙が落ちている。


オタカルは腕を組んだまま、視線を動かさない。


「話せ」

短い許可。


リヒャルトは一歩進み、しかし玉座には近づかない。

「ドイツは、まだ纏まりきれておりません」


直言だが、非難ではない。

「東より来た敵に対し、各領がそれぞれに防いだ。

結果、最前線に立つ者の損害が大きくなる」


オタカルの目がわずかに細くなる。

「ボヘミアはタタールによって大きな被害を被った」


「はい」

即答。


「タタールは依然として強い。

そして南では、新興の異教徒——ハフス朝も勢力を伸ばしております」


玉座の間の空気が少し変わる。

南の名が出たことに、数人の家臣が反応する。


「敵は一つではない」

リヒャルトは続ける。


「ゆえに、ドイツ全体が強く纏まらねば、

 再び“盾”に負担が集中する」


オタカルは黙っている。


否定しない。

「では、どう纏める」


王の問いは鋭い。

リヒャルトは静かに答える。

「街道です」


ざわめき。


「道を整備し、主要地点に駅を設ける。

 舗装を行い、物資と兵の移動を早める」


一呼吸。


「さらに、狼煙台による連絡網を整備します。

 これはタタールの手法から学べます」


オタカルの眉が動く。

「狼煙?」


「はい。

 山岳と平野を繋ぐ視界の連鎖。

 一日で情報が届けば、動きは変わります」


間。


リヒャルトは続ける。

「私はこれまで、馬車と荷車の改良を進めてまいりました」


王の視線が鋭くなる。


「聞いたことがある。

 それでケルンで成果を上げたと」


「恐れ入ります」

軽く頭を下げる。


「軸の強化、荷重の分散、懸架の改良。

 同じ道でも、移動速度と耐久が変わる」


「そしてそれらを可能にする高耐久の革です」


オタカルは立ち上がらない。

だが、興味は隠していない。

(噂に聞く「シトーの革」か)


「それを、ボヘミアに与えると?」


「共有いたします」

強調しない。


自然に言う。


「そして」

一瞬だけ間を置く。


「私の財力を用いて、ボヘミア前線に城塞網を築くことも可能です」

玉座の間が、静まり返る。


「城塞網だと」


「はい。

 単独の城ではなく、相互支援可能な配置。

 狼煙と街道で繋ぐ」

リヒャルトの声は落ち着いている。


「管理は、陛下にお任せしたい」


その一言で、空気が変わる。

命令ではない。

支配でもない。


「ボヘミアの守りは、ボヘミアが握る」


沈黙。

長い沈黙。


オタカルはゆっくりと言う。

「なぜそこまでする」


単刀直入だ。


リヒャルトは視線を逸らさない。

「盾が壊れれば、ドイツが割れる」


短い。

飾らない。


「私は、割れたドイツでは勝てません」

その言葉は、野心を隠していない。


だが、露骨でもない。

オタカルの口元が、わずかに動く。

「そなたは、己のためにドイツを守るのか」


「はい」

即答。


「そして陛下もまた、ボヘミアのためにドイツを守られた」


沈黙。


風が窓を鳴らす。

オタカルはゆっくりと立ち上がる。

玉座の段を一段降りる。

「城塞網は、私の指揮下に置く」


「無論」


「街道も、狼煙も、我が領内では我が法に従う」


「当然にございます」


一歩。


王と伯爵の距離が縮まる。


「馬車の設計図を見せよ」

初めて、具体的な要求。


リヒャルトは静かに頷く。

「すでに持参しております」


完全な合意ではない。

だが、拒絶でもない。


オタカルの目が、鋭く光る。

「盾は、飾りではない」


「承知しております」


「壊れぬ保証はあるか」


リヒャルトは答える。

「保証はありません」


間。


「ですが、壊れぬよう備えることはできます」


沈黙。


やがて王は言う。

「話は続けよう」


それは承認ではない。

だが、門は閉じられていない。


ヴルタヴァの水音が、遠くで鳴った。


◆◆◆


晩餐は、謁見の間ではなく石造りの小広間で行われた。


長卓ではない。

丸い卓だ。


燭台の火が揺れ、壁に影を落とす。


料理は質素だった。


燻した鹿肉。

黒パン。

酸味の強いキャベツの煮込み。

濃いビール。


王は飾らない。


オタカルは肉を切りながら言った。

「街道、狼煙、城塞網」


一口。


「悪くない」


リヒャルトは答えない。

評価を急がない。


「だが、財力で前線を固めるとはな」


王はビールを飲む。

「皇帝の器量か」


「まだ伯爵にございます」


「まだ、か」


短い沈黙。


火がはぜる。

オタカルは杯を置いた。


「仮にだ」

声が低くなる。

「仮に、私がそなたを支持するとしよう」


空気が締まる。


「私の票を得たとしても、後三名の選帝侯を説得せねばならぬ」


リヒャルトは静かにうなずく。

「承知しております」


王は指を折る。

「トーリア大司教」

「ブランデンブルク辺境伯」


一拍。


「そしてザクセン公」


リヒャルトの目がわずかに動く。


オタカルは続ける。

「もっとも、今のザクセンは少し事情が違う」


王は杯を回す。

「先代が亡くなってから、若い二人の王子がまだ成人しておらぬ」


「代理が立っている、と」


「そうだ」


オタカルの目が鋭くなる。

「現在の選帝侯代理は、チュートン騎士団総長」


リヒャルトは表情を変えない。


だが、その名を待っている。

「ゲルハルトだ」


燭台の火が揺れる。

リヒャルトの中で古い記憶が蘇る。


「総長は実務に長けている。

 そして、政治の匂いも分かる男だ」


王は続ける。

「私は紹介できる」


間。


「どうだ」


問いではない。

試しだ。


リヒャルトはゆっくりと答える。

「光栄にございます」


「ゲルハルトは、理想では動かぬ」


「承知しております」


「利で動く」


「それも存じております」


オタカルは目を細める。

「ブランデンブルクは慎重だ。

 トーリア大司教は天秤を好む」


王は肉を切る。

「三名を動かせるか」


リヒャルトは正面から言う。

「動かします」


即答ではない。

覚悟の速度だ。


「方法は」


「道を示します」


「また道か」


「はい」


静かな声。

「街道も、票も、孤立すれば意味がありません」


王は立ち上がる。

卓を回り、リヒャルトの前に立つ。

「私は軽い約束はせぬ」


「それで結構です」


「票は安売りせぬ」


「当然にございます」


王の影が揺れる。

「だが」


短い沈黙。


「そなたがトーリアとブランデンブルクを動かし、

 さらにザクセン——すなわちゲルハルトを説得できたなら」


視線が鋭くなる。


「その時、私は盾として立つ」

確約ではない。


条件付きの支持。


だが、門は開いた。

リヒャルトは深く頭を下げる。

「感謝いたします」


「礼は早い」


王は言う。

「総長に会ってからだ」


燭台の火が揺れる。

政治の盤面が、静かに動き始めた。

ヴルタヴァの水音が遠く響く。

ドイツはまだ割れている。

だが、繋ぐ糸は、見え始めた。

説得は、理屈だけでは動かない。


テオドールは、正しかった。

濃度を下げ、工程を整え、

全体を安定させる道を示した。


だが二コラは動かなかった。


動かなかったのではない。

動けなかった。


守るものの重さが違ったからだ。


一方で、リヒャルトはオタカルを動かした。


褒め、敬い、

利を示し、

条件を受け入れた。


彼は王の恐れを否定せず、

王の立場を奪わなかった。


盾の重さを理解した上で、

その重さを分かち合う形を示した。


説得の成否は、

正しさの差ではない。


相手が守っているものを、

どこまで見ているかの差だ。


石灰槽の前でも、玉座の前でも、

問われていたのは同じことだった。


——何を守るのか。


そして。


——その守りに、自分をどう組み込むのか。


ドイツはまだ割れている。


工房も、まだ揺れている。


だが、揺れの中で

それぞれが違う答えを選んだ。


その違いが、

次の道を決めていく。

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