第06話二コラ短章 - そうだ、妥協の理由
港は、いつもより静かだった。
戦の話は遠くで続いている。
元老院は数字を数え、軍港は革の到着を待つ。
だが、この短章で交わされるのは、
国家でも信仰でもなく、
ただ一つの箱と、
それを受け取るかどうかという迷いである。
職人の誇りと、夫の弱さ。
どちらが正しいかは、誰にも決められない。
――港は、曇り空の下で静まり返っていた。
石壁の陰に小舟が寄せられている。
甲板には布で包まれた小箱がひとつ。
二コラは足を止めた。
船の傍らに立つ若い男が、軽く頭を下げる。
ハフス朝の商人、ハサン。
まだ若い。
声も低すぎず、柔らかい。
「奥方の具合は、いかがですか」
「夜になると咳が出る」
それだけ答える。
ハサンは小さく頷く。
小箱に触れないまま。
「今日は、取引の話だ」
二コラが言う。
「品質低下の細工は、やめたい」
波が石を打つ。
「ヴェネツィアの軍需革だ。
あれ以上、繊維を緩める混合はできん」
「芯まで弱めれば、裂ける」
ハサンはすぐには答えない。
視線を落とし、ゆっくり言葉を探す。
「……あなたが誇りを持つ職人だということは、知っています」
「ならば、分かるはずだ」
「分かります」
小さく。
「ですが」
その先が続かない。
二コラは待たない。
「上の方針か」
ハサンは目を伏せたまま頷く。
「ヴェネツィアの軍備が強まることは、望ましくないと……」
言い訳のようでもあり、説明でもある。
「理屈だな、私は戦をしているわけではない」
「そう言われても…私もです」
即座に返る。
それは本心だった。
沈黙が落ちる。
ハサンは小箱の布を指で整えながら言う。
「もしも…もしもですよ、細工を止められるのであれば……」
一度、息を吸う。
「次の取引では、この材料を積む許可が出ないでしょう」
強くは言わない。
脅しにもならない。
ただの事実。
二コラの視線が小箱へ落ちる。
乾燥樹脂。
砕いた薬草。
粉末にした鉱塩。
冬を越すための匂い。
ここでは、手に入らない。
これが無ければ妻は冬を越えられないかも知れない。
「あなたの判断ではないのか」
「……違います」
少し悔しそうに。
「私は、届けたいと思っています」
二コラは何も言わない。
遠くで鐘が鳴る。
港の喧騒は遠い。
「細工は、これ以上深くはできん」
二コラが低く言う。
「以前からは違うやり方でなら、考える」
ハサンは目を閉じ、わずかに頷いた。
「それで、構いません」
声は安堵と、諦めの混じったものだった。
二コラは小箱を持ち上げる。
軽い。
だが腕は重い。
ハサンが小さく言う。
「申し訳ありません」
二コラは振り返らない。
「お前が謝ることではない」
石畳に足音が遠ざかる。
港には、潮の匂いと、
乾いた薬草の香りだけが、静かに残った。
二コラは裏切り者ではない。
ハサンもまた、悪人ではない。
けれど、二人のあいだには、
政治という目に見えない力が横たわっている。
戦は剣だけで行われるのではない。
石灰槽の中でも、
港の片隅でも、
静かに続いている。
それでも二コラは、
芯だけは守ろうとする。
それが彼に残された、
最後の抵抗だからだ。




