第05話 - だからこそ、陰謀の渦巻く港町
夜の海は、静かに見える。
だがその静けさは、しばしば突然破られる。
船は揺れ、立っているだけで精一杯になる。
それでも夜は明け、
船は目的地へ向かう。
海を越えて辿り着く港は、
決して無傷では迎えてくれない。
今回は、夜の甲板から城塞の港まで――
その一日の話である。
衝撃は、縦に揺れた。
――ごんッ!!
船体が横から叩かれる。
寝台から投げ出され、テオドールは床に手をついた。
次の瞬間、外から怒号が響く。
「鉤を切れ! 切れと言ってるだろう!」
鉄が木を噛む音。
船腹に打ち込まれた鉤爪が軋む。
続いて、縄を伝う足音。
上から降ってくる。
「海賊だァッ!」
廊下の柱が軋み、床板が跳ねた。
客室の扉が次々に開き、泣き声、祈り、荷箱の転がる音が混ざる。
ラグーザ行きの貨客船は、夜の海で動きを止められていた。
風は弱い。
逃げられない。
テオドールが廊下に出ると、既に甲板から血の匂いが流れてきていた。
船員が一人、階段から転げ落ちる。
背中に矢。
「抵抗するな! 縛れ!」
怒号。
異国訛りのラテン語。
ダルマチア海賊。
メリサンドは、廊下の中央に立っていた。
外套のまま。
「……おとなしくしていれば、客は売り物です」
彼女は低く言う。
「身代金目当てなので、無益な殺しはしません」
テオドールが息を整えようとした瞬間――
階段の上から二人、飛び込んできた。
血に濡れた曲刀。
「動くな!」
「女、武器を捨てろ!」
三人目が背後から現れる。
狭い船内。
逃げ場はない。
メリサンドは一歩だけ前に出た。
横へ。
普通に通り過ぎるように。
一人目の喉に、刃が入る。
二人目が即座に反応する。
速い。
曲刀が横薙ぎに走る。
外套が裂ける。
メリサンドの肩から血が散る。
テオドールの心臓が止まりかける。
だが彼女は止まらない。
回転。
肘打ち。
顎を砕く音。
三人目が背後から抱え込む。
短剣が脇腹へ向かう。
メリサンドは体を落とした。
肘で肋を砕き、男の腕を逆に引き抜く。
そのまま喉元へ短剣を押し返す。
三人、床に転がる。
だが――
「下にもいるぞ!」
甲板からさらに五、六人が降りてくる。
今回は弓持ちもいる。
狭い通路に矢が走る。
壁に突き刺さる。
客の悲鳴。
「……下がっててください」
メリサンドが言う。
だが彼女自身は前へ出る。
矢を避けながら距離を詰める。
矢が肩をかすめる。
甲板が滑る。
足裏がわずかに遅れる。
一瞬だけ、呼吸が乱れる。
血が落ちる。
近接に入った瞬間、形勢は変わる。
曲刀を受け流し、膝を折らせ、喉を断つ。
床が滑る。
血で。
狭い廊下はすぐに死体で埋まる。
だが甲板ではさらに激戦が始まっていた。
メリサンドは階段を駆け上がる。
甲板。
そこは戦場だった。
船員が倒れ、海賊が制圧を進めている。
中央には指揮官。
鉄板を縫い込んだ革鎧。
豪奢な帯。
そして――
奇妙な紋章。
三日月と塔。
メリサンドの記憶に引っかかる。
ダルマチア沿岸の海賊旗ではない。
「火を使え! 帆を焼けば従う!」
指揮官が叫ぶ。
それは身代金目的のやり方ではない。
焼けば船は沈む。
積荷も消える。
これは――
潰しだ。
メリサンドが踏み込む。
今度は真正面。
指揮官が彼女を視認する。
「……女?」
剣を抜く。
速い。
重い。
正規兵の動き。
ただの海賊ではない。
打ち合いになる。
火花が散る。
衝撃が甲板に響く。
メリサンドの肩の傷が開く。
血が滴る。
だが彼女の目は揺れない。
二合。
三合。
指揮官の癖を読む。
右足がわずかに外へ開く。
重心が流れる瞬間。
踏み込み。
低い軌道。
喉ではなく――鎖骨の下。
急所。
剣が沈む。
指揮官の息が止まる。
彼の手が彼女の外套を掴む。
「……約定が、違う……」
血を吐く。
意味不明の言葉。
崩れ落ちる。
甲板が静止する。
海賊たちは顔を見合わせる。
火を持っていた男が、松明を落とす。
誰も命令を出さない。
若い海賊が叫ぶ。
「退け! 退け!」
だが既に遅い。
船員が反撃に出る。
残った海賊は押し返される。
海へ飛び込む者もいる。
数分後。
夜は静かになった。
甲板に残るのは、死体と血。
そして――
指揮官の腰から落ちた封蝋付きの筒。
メリサンドはそれを拾う。
封蝋の印章。
見慣れぬ紋章。
だがラテン文字が読める。
「……これは」
メリサンドが呟く。
それは、沿岸都市国家の印章。
ラグーザではない。
ヴェネツィアでもない。
そのどちらとも微妙に異なる。
「偶然ではないな」
メリサンドが低く言う。
「この船は、狙われていた」
遠くの闇に、もう一つの船影があった。
最初の接舷船とは別。
様子を見ていた。
そして今、ゆっくりと距離を取っている。
撤退だ。
誰かが、状況を観察していた。
メリサンドは血を拭う。
肩はまだ動く。
テオドールが甲板に現れる。
「……テオドール殿」
「なんでしょうか」
「ラグーザに着けば、港は騒がしくなります」
「なぜ?」
彼女は月を見上げる。
「この航路は、もう“商売”だけの海ではない様です」
波が船腹を叩く。
夜は再び静かだ。
だが、何かが動き始めている。
◆◆◆
夜明けの光が甲板を白く照らしていた。
曳航されたガレー船が横に揺れている。
折れた櫂が海面を擦り、低い音を立てる。
メリサンドは封蝋の手紙を指先で確かめた。
「こちらは……後でルドヴィコ殿に渡せば十分でしょう」
穏やかな声。
「商人と都市の話です。私どもが深入りする必要はありません」
テオドールはまだ言葉が出ない。
昨夜の光景が、頭から離れなかった。
メリサンドのあの動き。
あの静けさ。
エルサは海を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……なるほど」
それは理解というより、受け入れだった。
メリサンドが二人を見る。
「お二人は工房に集中してください」
視線は真っ直ぐ。
「軍港は革を急がせていました。。昨夜の件と無関係とは思えません」
船は城塞へ近づく。
霧の向こうから山が立ち上がる。
岩壁に沿って築かれた石の街。
塔と城壁が海を見下ろしている。
―—ラグーザ
山と海に挟まれた城塞都市。
入り江は狭く、壁は高い。
守るための港だ。
曳航されたガレーを見て、港はざわめく。
兵が集まり、怒号が飛ぶ。
メリサンドは静かに言う。
「事情は船長が説明するでしょう。我々は目立たぬほうが賢明です」
そのまま軍港の奥へ向かう。
石造りの倉庫群。
桟橋に並ぶ軍船。
革工房はその一角にあった。
港では、まだ死体が数えられていた。
白布が一枚、風にめくれる。
血の匂いは消えない。
石灰の匂いと混ざる。
扉をくぐった瞬間、テオドールが足を止める。
「……臭い」
石灰の匂いが強い。
脂の酸化臭。
わずかな腐敗。
エルサも頷く。
「灰が濃すぎます」
革束を曲げる。
繊維が締まっていない。
「塩抜きが甘いですね」
テオドールが言う。
「急いでいる」
来訪者に気づいた工房の職人が肩をすくめる。
「軍港ですからな。修繕が増えておりまして」
メリサンドは革鎧の山を見やる。
交換された櫂の革巻き。
補修待ちの鞍。
量が多い。
「……備えているのですね」
静かな声。
エルサが小さく言う。
「だからこそ、工程を削っている」
テオドールは空気をもう一度吸い込む。
石灰。
焦り。
そして戦の気配。
昨夜の襲撃。
塔と三日月の封蝋。
曳航されたガレー。
どこかで、同じ手が動いている。
メリサンドが扉の方へ向く。
「工房はお任せします。私は港の動きを見てまいります」
そう言って外へ出る。
城壁の向こうで何かが動いている。
そしてこの匂いは、その予兆だった。
◆◆◆
工房の空気は、張り詰めていた。
石灰の匂いが強い。
乾燥の早すぎる革の粉が、指に残る。
テオドールは革を折り曲げた。
ぱき、と乾いた音がする。
「灰を濃くしすぎています」
工房長の視線が上がる。
「時間を短縮している」
「繊維が締まっていません。内部に塩が残っている」
エルサが続ける。
「だからこそ、櫂の革巻きが早く裂けます」
職人たちが顔を見合わせる。
工房長は腕を組んだまま動かない。
「軍港は量がいる」
低い声。
だが言葉が硬い。
テオドールは棚を見る。
未処理の皮が多い。
だが石灰槽は余裕がある。
乾燥棚も空きがある。
「量がいるなら、槽を増やすはずだ」
テオドールが言う。
「工程の順序を変えれば、質は落とさず回せる」
沈黙。
工房長の目が細くなる。
「……詳しいな」
空気が冷える。
「どこの工房の者だ」
「ヴェネツィアか」
疑いは露骨だった。
テオドールが答える前に、エルサが一歩出る。
袖から羊皮紙を取り出す。
封蝋。
教会の印。
「大評議会からの依頼書です」
工房長の顔色がわずかに変わる。
受け取り、確認する。
視線が名に止まる。
「……アルマリア」
声が低くなる。
教会の監査機構が関わる、ということだ。
単なる技術指導ではない。
会計も、契約も、資金も見られる。
工房長の指がわずかに強く紙を握る。
「監査、ですか」
外で足音が止まる。
誰かが、扉の前で立ち聞きしている。
エルサは静かに答える。
「本件に関して、軍港の品質維持は教会契約にも含まれています」
嘘ではない。
だが全てを言っているわけでもない。
工房長の背後で、職人が落ち着きを失う。
監査が入れば、帳簿も見られる。
石灰の購入量。
塩の使用量。
皮の仕入れ数。
そして――
外部から入った金。
テオドールは工房長を見た。
目が逸れたようにも見えた。
光の加減かもしれない。
だが、違和感は残る。
急ぎだけでは説明がつかない。
なぜ。
軍港の革が脆くなれば。
櫂が裂ける。
鎧が破れる。
遠征に支障が出る。
「……最近、仕入れが増えていますね」
テオドールが何気なく言う。
「石灰も塩も」
工房長の視線が戻る。
「軍備が増えている」
即答。
だが早すぎる。
エルサが静かに言う。
「だからこそ、品質は落とせません」
言葉は穏やかだが、逃げ場はない。
教会の名が背後にある。
工房長は羊皮紙を返す。
棚の隅に、別の帳面があった。
軍納品分、とだけ書かれている。
数が合わない。
「……工程を見直そう」
声は落ち着いている。
だが額に汗が浮かんでいる。
「協力してもらえるか」
エルサは頷く。
「もちろんです」
テオドールは革を置く。
違和感は消えない。
石灰の匂いの奥に、別の匂いがある。
焦りではない。
隠蔽。
外では、曳航されたガレーの調査が進んでいる。
石灰槽の水面が揺れる。
沈みきらない塩が、白く浮いている。
夜の戦いは、終わったように見える。
甲板に残ったのは血と、曳航されたガレーだけだ。
だが船はそのまま港へ入り、
山と海に挟まれた城塞都市へ辿り着く。
戦いは、海の上だけにあるわけではない。
剣の応酬は一瞬で決着する。
だが工程の歪みは、ゆっくりと広がる。
石灰の匂いの中に潜む違和感は、
夜の刃とは別の形をしている。
海で始まった揺らぎは、
港で終わったわけではない。
それは形を変え、
静かに内側へ入り込んでいる。




