第03話エルサ短章 - だからこそ、この夜は祈りの外にある
祈りは、
いつも言葉になるとは限らない。
声に出され、
定められた順で唱えられるものだけが
祈りなのではないと、
人は時に、祈れなかった夜によって知る。
この短章は、
語られなかった祈りについての記録である。
夜半を過ぎ、
灯りが最も低くなったころ。
エルサは寝台のそばに腰を下ろし、
呼吸の間隔だけを数えていた。
声にはしない。
唇も、ほとんど動かさない。
——主よ。
答えを求める呼びかけではなかった。
ただ、夜がここにあることを
確認するための言葉。
——わたしは、今、
——安らぎの中に身を横たえます。
眠るのは、彼女ではない。
エルサ自身でもない。
ただ、
この夜を、
逃がさないための思いだった。
——恐れは、
——闇そのものではありません。
闇の中で、
手が先に動いてしまったこと。
祈りを整える前に、
人の体温を確かめてしまったこと。
——それでも、
——あなたは夜を守る方。
疫も、
熱も、
異国の不安も。
それらが近づいても、
それがすべてではないと
知っている方。
エルサは、
布を替えながら、
ふと視線を落とした。
——主よ。
——今、
——この夜を去らせてください。
それは願いではなく、
許可を待つ言葉だった。
目の前にある生が、
まだここに在ることを、
この手が確かめてしまった以上、
何もなかった夜には
戻れないと知っているから。
——あなたの平和のうちに。
その言葉だけが、
形を保っていた。
声に出さず、
誰にも聞かれず、
祈りとして数えられぬまま。
夜は、
何事もなかったように
明けていった。
◆◆◆
翌朝。
修道院の鐘は、
いつもと同じ刻に鳴る。
詩編は唱えられ、
聖句は読み上げられ、
誰も、
昨夜のことには触れない。
エルサもまた、
何も語らない。
ただ、
声をそろえて立ち、
定められた祈りを
過不足なく終える。
——その夜は、
——どこにも記されない。
だが、
失われたわけでもない。
それだけが、
エルサには分かっていた。
この夜のことは、
翌朝には何も残らない。
鐘は鳴り、
詩編は唱えられ、
祈りは、いつも通りに終わる。
エルサもまた、
いつも通りに立ち、
いつも通りに声をそろえる。
違いがあるとすれば、
それを言葉にしなかったことだけだ。
祈りにならなかったものは、
祈りの中には置かれない。
ただ、
なかったことにもならない。
それだけである。




