表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
秤の都、整えられた世界「ヴェネツィア」 ——水辺の聖ミカエル修道院編
58/81

第03話エルサ短章 - だからこそ、この夜は祈りの外にある

祈りは、

いつも言葉になるとは限らない。


声に出され、

定められた順で唱えられるものだけが

祈りなのではないと、

人は時に、祈れなかった夜によって知る。


この短章は、

語られなかった祈りについての記録である。

夜半を過ぎ、

灯りが最も低くなったころ。


エルサは寝台のそばに腰を下ろし、

呼吸の間隔だけを数えていた。


声にはしない。

唇も、ほとんど動かさない。


——主よ。


答えを求める呼びかけではなかった。

ただ、夜がここにあることを

確認するための言葉。


——わたしは、今、

——安らぎの中に身を横たえます。


眠るのは、彼女ではない。

エルサ自身でもない。


ただ、

この夜を、

逃がさないための思いだった。


——恐れは、

——闇そのものではありません。


闇の中で、

手が先に動いてしまったこと。


祈りを整える前に、

人の体温を確かめてしまったこと。


——それでも、

——あなたは夜を守る方。


疫も、

熱も、

異国の不安も。


それらが近づいても、

それがすべてではないと

知っている方。


エルサは、

布を替えながら、

ふと視線を落とした。


——主よ。


——今、

——この夜を去らせてください。


それは願いではなく、

許可を待つ言葉だった。


目の前にある生が、

まだここに在ることを、

この手が確かめてしまった以上、

何もなかった夜には

戻れないと知っているから。


——あなたの平和のうちに。


その言葉だけが、

形を保っていた。


声に出さず、

誰にも聞かれず、

祈りとして数えられぬまま。


夜は、

何事もなかったように

明けていった。


◆◆◆


翌朝。


修道院の鐘は、

いつもと同じ刻に鳴る。


詩編は唱えられ、

聖句は読み上げられ、

誰も、

昨夜のことには触れない。


挿絵(By みてみん)


エルサもまた、

何も語らない。


ただ、

声をそろえて立ち、

定められた祈りを

過不足なく終える。


——その夜は、

——どこにも記されない。


だが、

失われたわけでもない。


それだけが、

エルサには分かっていた。

この夜のことは、

翌朝には何も残らない。


鐘は鳴り、

詩編は唱えられ、

祈りは、いつも通りに終わる。


エルサもまた、

いつも通りに立ち、

いつも通りに声をそろえる。


違いがあるとすれば、

それを言葉にしなかったことだけだ。


祈りにならなかったものは、

祈りの中には置かれない。


ただ、

なかったことにもならない。


それだけである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ