第03話 - あたりまえ、と言う夜
誰かが来ない、ということは、
多くの場合、理由を持たないまま過ぎていく。
忙しかったのかもしれない。
忘れていたのかもしれない。
あるいは、ただ別の場所にいただけかもしれない。
けれど、来ないことに気づいてしまった者にとって、
それはもう「何も起きていない」では済まされない。
この話は、
問いを立てた瞬間から始まる。
そしてその問いは、
思っているよりも深い場所まで人を連れていく。
サーミラが姿を見せなくなって、三日目だった。
正確には、誰も「来ない」とは言っていない。
市場にも、運河沿いにも、姿を見かけないだけだ。
だがエルサは、それを「偶然」とは扱わなかった。
朝の作業を終えた後、帳簿を閉じる手が一瞬だけ止まる。
視線が、工房の入口に向いた。
——来ない。
それだけで、理由が必要になる。
「フォンダコに行ってきます」
テオドールに告げると、彼は一瞬だけ考え、すぐに頷いた。
「なるほど。気になりますよね」
「ええ。三日、というのは」
エルサは理由を言わなかった。
テオドールも、それ以上は聞かなかった。
◆◆◆
フォンダコは、空気が違った。
同じヴェネツィアでありながら、音の混ざり方が違う。
ラテン語でもヴェネツィア語でもない響きが、あちこちで重なり合っている。
香の匂い。
油と香辛料の混じった空気。
布の色も、飾りも、少しだけ強い。
異国情緒、という言葉で片づけるには、距離が近すぎた。
ここは「よそ者の場所」ではない。
異教徒が、自分たちの論理で暮らしている場所だ。
エルサは足取りを崩さず、しかし不用意に視線を走らせることもしなかった。
——踏み込みすぎない。
——しかし、引きすぎない。
修道院で身についた、境界の歩き方だった。
サーミラの名を出すと、男はすぐに察した顔をした。
「三日ほど、ここには来ていない」
男は片言のイタリア語で肩をすくめるように頷いた。
「熱だそうだ。ここ数日、少し無理をしていた」
「今は?」
「休んでいる。アパルタメントだ」
エルサは、その言葉を一度、頭の中で転がした。
アパルタメント。
商人や職人が借りる、簡素な住まい。
宿ではないが、家族を持たぬ者には現実的な選択だ。
——修道院ではない。
——誰かの庇護の下でもない。
「場所を、教えていただけますか」
一瞬だけ、相手は迷った。
だが、エルサの服装と態度を見て、短く息を吐く。
「場所は言える」
それで十分だった。
◆◆◆
フォンダコを出たところで、エルサは一度立ち止まった。
手ぶらで行くべきではない。
だが、過剰でもいけない。
施しではなく、見舞い。
同情ではなく、気遣い。
——異教徒に、修道女が持っていくべきもの。
考えた末、彼女は小さな袋を一つ用意した。
刺激の強くない乾果と、少量の蜂蜜。
薬ではないが、体を気遣う意思が伝わる程度のもの。
「これで、いいはず」
誰にともなく、そう呟く。
夕方の運河沿い。
日が傾き、建物の影が長く伸びる頃。
エルサは、教えられた通りの扉の前に立っていた。
古い木の扉。
装飾はない。
だが、異国の記号が、かすかに刻まれている。
一歩、踏み出せば。
もう「聞きに来ただけ」では済まない。
エルサは袋を持ち直し、扉に手をかけた。
——なるほど。
静かに、息を整える。
そして、扉を叩いた。
返事はなかった。
扉の向こうから、足音も、声も聞こえない。
ただ、空気が動いていない感じだけがある。
エルサは、もう一度だけ軽く扉を叩いた。
——それでも、何も起きない。
「……失礼します」
小さくそう告げてから、扉に手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。
軋む音とともに扉が開く。
中は暗い。
昼間だというのに、窓は半分しか開いておらず、光が届いていない。
そして、すぐに見えた。
寝台の上に、サーミラがいた。
布をかけたまま、身を丸めるようにして横たわっている。
呼吸は浅く、額に汗が浮いていた。
——苦しそうだ。
そう判断するまでに、時間は要らなかった。
エルサが一歩踏み込むと、サーミラの瞼がわずかに動いた。
「……?」
焦点の合わない目が、ゆっくりとこちらを捉える。
「エ……ル、サ?」
名前を呼ぶ声は、かすれている。
驚きが先に来て、次に状況が追いついていない。
「来てしまいました」
エルサは静かに言った。
「三日、姿を見なかったので」
サーミラは、困ったように眉を寄せる。
「そう、か……すまない……」
言葉を選んでいるようだが、思考が追いついていないのが分かる。
頭がふらついている。
意識はあるが、整っていない。
エルサは、手に持っていた袋を少し持ち上げた。
「お見舞いです。少しですが」
サーミラはそれを見て、目を瞬かせた。
「ああ……礼を言う……」
それから、起き上がろうとした。
布を押しのけ、肘をつこうとして——
力が入らない。
身体が、言うことをきかない。
「……っ」
小さく息を詰め、再び寝台に沈む。
「無理をしないでください」
エルサは、反射的に前に出ていた。
手を伸ばすかどうか、一瞬だけ迷う。
だが、迷っている場合ではない。
「すまない」
サーミラは、はっきりそう言った。
助けられることよりも、迷惑をかけていることを先に詫びる声音だった。
その一言で、エルサの中の何かが切り替わった。
——これは、躊躇する場面ではない。
修道院で、何度も経験した感覚。
倒れた者を前にした時の、思考の整理。
「今は、謝る必要はありません」
声の調子が、自然と変わる。
「少し、様子を見せてください」
断定でも、命令でもない。
だが、迷いはなかった。
エルサは寝台のそばに腰を下ろし、サーミラの額に手を伸ばす。
熱がある。
高すぎるほどではないが、放置してよいものでもない。
「水は、飲めていますか」
「……あまり」
「食事は」
「昨日は……少し」
エルサは頷く。
——原因は一つではない。
——疲労、気候、食事、生活環境。
異国で暮らす身体には、どれも重なる。
「ちゃんと、休みましょう」
「……仕事が」
「今は、身体です」
その言葉を、エルサは疑いなく言えた。
修道女としてではなく、
看護を知る者として。
袋から乾果を取り出し、すぐには差し出さない。
まず、水を探す。
「水差しは、どこに」
サーミラは、かすかに指を動かして示した。
エルサは立ち上がり、部屋を見回す。
——なるほど。
ここは、長く病むための場所ではない。
だからこそ、今は誰かが必要だった。
エルサは、水を注ぎながら、心の中で静かに決める。
——今日は、帰らないかもしれない。
そう思っても、不思議と重さはなかった。
◆◆◆
夜は、静かに深まっていった。
外の運河を渡る音が、一定の間隔で壁を打つ。
灯りは最小限。
窓は開けすぎず、風だけを通す程度。
水を替え、額を拭き、呼吸を確かめる。
眠っているようで、眠りきれていない。
サーミラは何度か目を覚まし、そのたびに短く息を整えた。
「……まだ、いるのか」
かすれた声。
「ええ」
エルサは即座に答える。
「夜が明けるまでは」
それが当然であるかのように。
夜半を過ぎたころ。
サーミラは、しばらく黙ったまま天井を見ていた。
やがて、小さく息を吸う。
「……頼みが、ある」
その声には、迷いが混じっていた。
「はい」
「体を……拭いてほしい」
エルサの動きが、一瞬だけ止まる。
看護としては、理解できる。
熱があり、汗も出ている。
理にかなった要求だ。
——だが。
修道女としての距離。
異教徒であるという事実。
そして、個人としての境界。
「……」
返事が、すぐに出てこない。
サーミラはそれに気づいたのか、視線を逸らす。
「無理なら……構わない」
「少し、頭が……」
言葉が、途切れる。
謝罪は、続かなかった。
エルサは、深く息を吸った。
——これは、行為の意味を自分がどう扱うかだ。
修道院では、何度もあった。
だが、そこでは同じ信仰、同じ規範があった。
ここには、それがない。
「……分かりました」
声は、静かだった。
「必要な範囲で、行います」
水を温め、布を絞る。
その一連の動作で、心を整える。
仕事として。
役割として。
だが、寝台のそばに戻ったとき、
エルサはわずかに視線を逸らした。
サーミラの肌が、思っていたよりも滑らかだったからだ。
仕事をする人間の肌はたいてい荒れている。
太陽によく当たるような仕事ならなおさら…なのに。
異国の光の下で見る肌は、
修道院で見慣れたものとは、質が違って見えた。
「冷たくありませんか」
問いは、逃げ道でもあった。
「……大丈夫だ」
エルサは、布をそっと当てる。
額。
首筋。
腕。
汗を拭うたびに、布が微かに色を変える。
——きれいだ。
不意に、そう思ってしまった。
形ではない。
艶でもない。
生きている肌が、光を受けている、その在り方。
エルサは、すぐに視線を落とす。
——違う。
——今は、そういう意味ではない。
自分に言い聞かせるように、手を動かし続ける。
「……すまない」
サーミラが、また言う。
エルサは、首を横に振った。
「今は、何も言わなくていいです」
その声は、少しだけ柔らかかった。
布を替え、もう一度、腕に触れる。
熱は、わずかに下がっている。
「……あなたは」
サーミラが、目を閉じたまま呟く。
「不思議な人だ」
エルサは答えなかった。
ただ、手を止めなかった。
——夜が明けるまでは。
そう決めた自分を、
もう疑わなかった。
サーミラは、強い。
少なくとも、そう振る舞うことに慣れている。
「まかせて」と言い、
「あたりまえ」と笑い、
異国の街で、自分の立ち位置を保ってきた。
だからこそ、倒れたとき、
彼女は「助けて」とは言えなかった。
代わりに出てきたのは、「すまない」という言葉だった。
エルサが越えたのは、
宗教の境界だけではない。
看護すること。
夜を越えてそこに居続けること。
触れることの意味を、自分で引き受けること。
それらはすべて、
修道女として定められた役割ではなく、
一人の人間として選び取った行為だった。
祈りが言葉にならない夜もある。
その夜に差し出された手が、
誰かにとっての救いになることもある。
第三話は、
そうした「選ばれてしまった関わり」を描いている。
そして一度選んでしまった関係は、
もう元の距離には戻らない。




