第02話 - なるほど、日曜日は分かりやすい
日曜日の街は、少しだけ呼吸が違う。
鐘の音は急かさず、人の足取りもどこか緩やかだ。
だが、それは何も起きないという意味ではない。
むしろ、立ち止まるからこそ見えてくるものがある。
仕事や制度や役割が一旦脇に置かれたとき、
人はようやく、自分がどこに立っているのかを感じ始める。
この話は、そんな一日の記録である。
まだ答えは出ていない。
だが、問いだけは、はっきりと形を持ち始めている。
日曜日の朝、
鐘の音が水面を伝って、島まで届いていた。
この日は工房も帳簿も半日休みになる。
テオドールとエルサは、朝の礼拝が終わった後、
小舟で本島へ渡った。
霧はすでに晴れ、
運河には人の声と櫂の音が戻っている。
日曜のヴェネツィアは、
仕事の顔を外した街だった。
露店が並ぶ小さな広場で、
二人はベアトリクスと合流した。
「聞いて聞いて!」
姿を見つけるなり、ベアトリクスが手を振る。
「今日は午前中で終わったのよ!」
スカーフの下から覗く顔は、
島にいた頃より少し引き締まっている。
「お疲れさま」
エルサが微笑む。
「顔色は悪くないですね」
「それはね、ちゃんと寝てるから」
胸を張るように言ってから、
すぐに表情を崩した。
「でもね、家庭教師たちが……ほんとに容赦なくて」
三人は露店の前で立ち止まる。
串に刺した小魚の揚げ物――フリットが、
紙に包まれて次々に渡されていた。
「これも食べてみるといい、お嬢さん」
売り子に勧められ、
小皿に盛られたチケッティも受け取る。
塩気の効いた干し鱈のペーストに、
甘酸っぱい玉ねぎを添えたサルデ・イン・サオール。
どれも手軽に食べられる、
この街らしい昼食だった。
「商館の食事と、ぜんぜん違う」
ベアトリクスは目を輝かせながら、
一口かじる。
「……おいしい!」
「油が軽いですね」
エルサは紙を押さえながら言う。
「保存と移動を前提にした料理だ」
テオドールが補足する。
「商人向けだな」
「またそういう言い方する」
ベアトリクスは笑った。
「でも、分かる気がする」
三人は石段に腰掛け、
運河を眺めながら食べ進める。
しばらくして、
ベアトリクスが小さく息を吐いた。
「……厳しいのよ」
今度は声を落とす。
「語学も算術も、礼法も。
間違えると、その場で止められるの」
「止められる、というのは?」
エルサが聞く。
「書き直し。言い直し。姿勢のやり直し」
肩をすくめる。
「『分かった』じゃ通らないの。
できるまで、やるの」
テオドールは少し驚いた顔をした。
「逃げ場がないな」
「そう!」
即答だった。
「でもね……」
一拍置いて、
ベアトリクスは紙包みを握り直す。
「ちゃんと身についてる感じも、するの」
少し照れたように言う。
「前は、言われたことを覚えるだけだったけど……」
一度、言葉を切る。
紙包みを指で折りながら、
「今は、理由を聞かれるの」
エルサは、その言葉を聞いて頷いた。
「それは、良い教え方ですね」
「厳しいけどね」
ベアトリクスは笑う。
「ほんとに厳しい」
それでも、愚痴の後に残るのは、
投げ出す気配ではなかった。
「頑張ってますよ」
エルサが言う。
「でしょ?」
胸を張る。
「だから、日曜日くらいは許してほしいの」
テオドールは最後の一口を飲み込み、
「許される範囲だな」と言った。
ベアトリクスは満足そうに頷く。
運河を渡る風が、
彼女にスカーフを揺らした。
日曜日のヴェネツィアは、
少しだけ柔らかい。
仕事も、勉強も、制度も、
今日は脇に置かれている。
だがそれらは、
また次の日に戻ってくる。
それを分かった上で、
三人は笑いながら、
露店の残りを分け合っていた。
◆◆◆
テオドールはルドヴィコに会うため、
ベアトリクスやエルサと別れたあと、
一人で運河沿いを歩いていた。
日曜日の街は賑やかだが、
商館の並ぶ通りに入ると、空気が変わる。
ルドヴィコの商館はグラデニーゴ家の館からは離れていた。
中に入ると帳簿と書付が机いっぱいに広がっていた。
「おう、来たか」
ルドヴィコは顔も上げずに言う。
「休みだろ?」
「様子見だ」
テオドールは肩をすくめた。
「日曜のほうが、腹を割って話せることもある」
「違いない」
ルドヴィコは書付を一枚引き寄せる。
「で、革だ」
指で数字を叩く。
「ドイツ方面、さらに伸びてる。
正直、絶望的展開!って言いたくなるくらいにな」
「戦争…なのか?」
テオドールは即座に言ってから、舌打ちした。
「……ないわー」
「そうだ」
ルドヴィコはあっさり認める。
「装備用が中心だ。
馬具、鎧下、盾の裏張り。
量も速度も、平時じゃありえない」
「原因は?」
「いくつもある」
ルドヴィコは指を折る。
「だが決定打はリヒャルトだ」
テオドールは顔を上げた。
「ケルン大司教を救った件だ」
「英雄が一人立つと、周りが勝手に盛り上がる。
噂が走って、注文が雪崩れる」
「象徴か」
「そういうことだ」
ルドヴィコは苦笑した。
「英雄がいれば、武器は売れる。
すなわち、革も売れる」
一瞬の沈黙。
「ボヘミア王も動いてる」
ルドヴィコは声を落とす。
「準備段階だが、匂いは濃い」
「事を構える前提、か」
「ああ」
ルドヴィコは頷いたあと、
ふっと息を吐いた。
「だがな」
ここで、初めて調子が変わる。
「俺は昔から同じことしか言わない」
帳簿を閉じる。
「最終的には、平和のほうが商売になる」
テオドールは黙って聞いている。
「戦争が生む利益は短期的だ」
ルドヴィコは一度、言葉を止める。
「……終わりが来た瞬間、全部ひっくり返る。
前に一度、倉が空になった」
テオドールが呟く、
「……でも、今は儲かってる」
「今はな」
即答だった。
「だが長く続いた戦争は、必ず市場を壊す。
大丈夫!って言えるのは、平和が戻る見込みがあるときだけだ」
その言葉は、
商人の理想論ではなかった。
経験談だった。
「俺は、続く商売がしたい」
ルドヴィコは帳簿を指で叩いた。
「だから戦争は歓迎しない。
利用はするが、期待はしない」
テオドールは、しばらく黙っていた。
「……悪くない」
ふと、そんな言葉が口をついて出る。
「理屈としては、筋が通ってる」
だがすぐに、首を横に振った。
「でも、そう簡単にはいかない」
技術は一度広がれば、
行き先を選ばない。
「俺は」
テオドールは言葉を探しながら続ける。
「水を減らして、時間を縮めて、
失敗を減らしたかっただけだ」
帳簿の数字が、
その“結果”を黙って示している。
「身近なやつを助けるためだった」
「好奇心もあったが……」
指先を握る。
「それが戦争に回る」
短く息を吐いた。
「……不純だな」
ルドヴィコは否定しない。
「要するに」
テオドールは、自分に言い聞かせるように続ける。
「技術は中立でも、
使われ方は中立じゃない」
言ってから、テオドールは口を閉じた。
「……いや、たぶん、そう言い切るのも違うな」
「すなわち、俺は」
言葉を切る。
「結果から完全には逃げられない」
沈黙。
「……ないわー」
思わず本音が漏れる。
「こんな形で現実に突き返されるとは」
ルドヴィコは静かに言った。
「だから、考えろ」
テオドールは立ち上がる。
ルドヴィコが書類にペンを走らせながら続ける。
「答えはすぐ出ない」
「出たら、それはそれで怖い」
「違いないな」
商館を出ると、
運河の向こうで鐘が鳴っていた。
日曜日は、
まだ終わっていない。
だがテオドールの中で、
一つの整理だけは終わっていた。
――悪くない。
――だが、そう簡単にはいかない。
要するに。
自分はもう、
「技術だけ」を見ていられる場所にはいない。
その事実だけが、
はっきりと残っていた。
◆◆◆
日が傾きはじめた頃、
エルサとベアトリクスは並んで歩いていた。
運河沿いの道は、
昼間の賑わいが少しずつ引いている。
露店は片づけに入り、
舟の往来も、どこか落ち着いた速さに変わっていた。
「ねえ、エルサ」
歩き出してすぐ、
ベアトリクスが声を上げる。
「算術の先生の話、してもいい?」
「ええ」
エルサは頷く。
「今日は、厳しかったのですか?」
「厳しい、なんてものじゃないわ」
即答だった。
「数字を一つ間違えただけで、そこで止まるの」
「計算を、ですか」
「それだけじゃない」
ベアトリクスは首を振る。
「どうしてその数になるのか、
どうしてその順番で書いたのか。
理由を言えないと、やり直し」
歩きながら、
指で空中に線を引く。
「帳簿の付け方も教えられた」
少し声を落とす。
「消しちゃ駄目。
書き直しも駄目。
間違えたら、二重線を引いて、横に理由を書くの」
エルサは、ゆっくりと頷いた。
「誰が、いつ、どこで、どう間違えたか」
ベアトリクスは淡々と続ける。
「それが後から分かるように残すんだって」
「……なるほど」
エルサの口から、自然に言葉が出た。
「先生ね、言うの」
ベアトリクスは少し真面目な顔になる。
「ヴェネツィアでは、
帳簿はただの記録じゃない、って」
「法律に直結する、ということですね」
「そう!」
少し驚いたように目を見開く。
「虚偽の記載は重罪なんだって。
銀貨の重さをごまかすのも、同じ」
「罰則は……?」
エルサは、足を止めずに聞いた。
「罰金だけじゃない」
ベアトリクスは指を二本立てる。
「営業停止とか、取引禁止とか。
ひどいと、名前を公示される」
「信用を、失う」
「うん」
短く頷く。
「ヴェネツィアでは、それが一番怖いんだって」
少し間が空いた。
「だからね」
ベアトリクスは、少し照れたように続ける。
「先生、こう言ってた。
『正しく書くより、疑われない書き方を覚えなさい』って」
その言葉は、
エルサの中で静かに重なった。
秤を二つ。
帳簿を二つ。
――分かりやすい方が早い。
サーミラの言葉が、
別の角度から響いてくる。
正しさと信用は、
必ずしも同じではない。
運河を渡る舟が、近くで水を弾いた。
だが、
信用を失えば、
正しさは誰にも見てもらえなくなる。
「……難しいですね」
エルサは、小さく息を吐いた。
「でしょ?」
ベアトリクスは笑う。
「だから厳しいのよ。
でも、逃げられない」
そう言って前を見る。
グラデニーゴ家の門が、
すぐそこに見えていた。
「じゃあ、ここまで」
門の前で立ち止まる。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
エルサは微笑む。
「良い話を聞かせてもらいました」
「また日曜日にね!」
門が閉まる。
エルサは、その場に少しだけ立ち止まり、
運河の水面を見た。
サーミラの提案は、
間違っていない。
だが、
扱い方を誤れば、
別の疑いを生む。
秤を二つ持つということは、
どちらの重さも、引き受けるということなのだろうか。
エルサは、静かに歩き出す。
テオドールと合流して
島へ戻る舟の時間まで、
まだ少しある。
考えるには、
ちょうどいい距離だった。
この話で立ち止まっているのは、テオドールとエルサだ。
テオドールは、結果から逃げられない場所に立たされている。
善意で始めたことが、思いがけない形で広がり、
帳簿の数字として現実に返ってくる。
技術は中立でも、
その先は中立ではない。
彼はまだ答えを持たないが、
「技術だけを見ていられない場所に来てしまった」
その感覚だけは、はっきりと残っている。
エルサの迷いは、正しさと信用のあいだにある。
正しいことと、疑われないことは同じではない。
秤を二つ持つという選択は、
どちらの重さも引き受けるという意味を持つ。
二人とも、まだ決めてはいない。
だが、この日曜日で一つだけ分かったことがある。
立ち止まったからこそ、
もう元の場所には戻れない、ということだ。




