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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
止める者、止まるもの、選ばれる道 ― アルプス越え編 ―
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第11話 - 問題ない、アルプスを越えて知る事実

夜が明けても、山は変わらない。

優しくなったわけでも、許したわけでもない。


ただ、生き残った者たちの呼吸だけが、

昨日より少しだけ、整っている。


進むか、留まるか。

誰が前に立ち、誰が後ろに残るか。


答えは、言葉ではなく、

身体の向きと、踏み出した一歩で示される。


この朝、

彼らはまだ何も知らない。


知らないまま、

それでも歩き始める。

夜明けは、静かだった。


雪は降っていない。

風も、昨日ほど強くない。


だが――

山が優しくなったわけではない。


ベアトリクスの熱は下がっていた。


額に触れたエルサの手は、もう慌てなかった。

熱は残っているが、危険な高さではない。

「……よかった」


それだけ言って、エルサは息を整える。


ベアトリクスは目を開けている。

焦点は、まだ少し曖昧だ。


「歩けますか」

エルサの問いに、

ベアトリクスは一瞬だけ考えてから、首を横に振った。


「……たぶん、無理」

正直な声だった。


立ち上がろうとして、力が入らないことに気づく。

足が、身体の重さを拒んでいる。


ベルクは、すでに外に出ていた。


雪の状態を見、空を見、

何も言わず戻ってくる。


「今日は進む」

短く、決定事項として。

「だが――」


視線が、ベアトリクスに落ちる。

「長くは歩けないな」


否定でも、非難でもない。

ただの観察。


一瞬の沈黙。


その間に、テオドールは考えていた。


――ベルクは、前に出る人間だ。

――ガイドは、身軽でいなければならない。


この山では、

一歩の遅れが、そのまま全体の危険になる。


「……俺が背負います」

テオドールの声は、静かだった。


ベルクが、初めてはっきりと彼を見る。

「お前が?」


「はい」

即答だった。


「重いですよ」

エルサが言う。


「分かっています」


「足場は悪い」


「……分かっています」


「途中で投げ出せば、全員が危険になる」


ベルクは、しばらく黙っていた。


そして、頷く。

「なら、行け」


それだけ。


ベアトリクスは、何が起きているのか理解するのに少し時間がかかった。

「……え?」


テオドールがしゃがみ、

背中を差し出した、その時だった。


「待て」

ベルクの声。


短いが、止める力のある声だった。


テオドールが振り返る。


ベルクは近づき、

無言でベアトリクスの身体の位置を見た。


そして、テオドールの肩を、

ごく軽く叩く。

「そのまま乗せると、すぐ疲れる」


言いながら、

ベアトリクスの腰の位置を少しだけずらす。

「重さを、背中に乗せるな」


一拍。


「腰に落とせ」


エルサが、思わず聞き返す。

「腰……?」


「背中で持つな」

「腹と腰で受けろ。肩は添えるだけだ」


言われるまま、

テオドールは背筋を立て、わずかに前傾し、

膝を緩めて重心を落とす。


――ずしり。


だが、

さっきとは違う。


「……あ」

思わず、声が漏れた。


「違う、だろ」

ベルクは、頷く。


「重さは変わらん」


「だが、持ち方が違う」


さらに、ベアトリクスの脚を軽く押す。

「脚は、こうだ」


「締めすぎるな。落ちない程度でいい」

ベアトリクスは、半分ぼんやりしたまま、

言われるがままに腕を回す。


「……なんか」

小さな声。

「安定した……」


ベルクは、もう一度だけ確認する。

「呼吸は?」


「できます」

テオドールは、はっきり答えた。


「なら、行ける」

それだけ言って、

ベルクは先に歩き出した。


テオドールは、一歩踏み出す。


――軽い。


いや、

軽くなったわけではない。


だが、

「支えられる重さ」になっている。


「……ありがとうございます」

背中越しに言うと、


「礼はいらん」

ベルクは、振り返らずに言った。


「山では、倒れない方が正しい」


軽くはない。

だが、思ったよりも――温度がある。


生きている重さだ。


歩き出す。


一歩。

二歩。


雪は締まっているが、

ところどころ、昨日の雪崩の余波が残っている。


足を置く場所を、ベルクが選ぶ。


テオドールは、それをなぞる。


慎重に。

だが、止まらない。


途中、足元の雪が崩れた。


「――っ」


身体が、前に流れる。


一瞬、視界が傾く。


だが、踏ん張った。


太腿が悲鳴を上げる。

肺に、冷たい空気が刺さる。


それでも、倒れない。


背中で、ベアトリクスが小さく息を呑む。

「……ごめん…」


掠れた声。


「そんな、謝ることはない」

テオドールは、呼吸を整えながら言う。

「結構あったかいし、たすかる」


ベアトリクスは、しばらく黙る。


揺れる視界の中で、

テオドールの背中だけが、近くにある。


しっかりしていて、

思っていたより――大きい。


「……ね」


「はい」


「背中……」


一拍。


「……大きいんだね」

独り言のような、

それでいて不思議と落ち着いた声。


テオドールは、少しだけ肩をすくめる。

「そうですか」


「うん……」

ベアトリクスは、目を閉じた。


「……安心する」

それ以上は、言わなかった。


歩きながら、

ルドヴィコはエルサの隣に来る。


声を落とす。

「ヴェネツィアに着いたあとだが……」


エルサは、歩調を崩さずに応える。

「滞在先は、あります」


「ほう」


「サン・ミケーレ島です」


ルドヴィコの眉が、わずかに上がる。

「……シトー派の修道院…『水辺の聖ミカエル修道院』か」


「ええ」


「紹介状も?」


「あります」


それを聞いて、

ルドヴィコは小さく笑った。

「そこなら……」


一拍。


「革加工に、向いているな」


エルサは、視線を前に向けたまま、頷く。

「湿度も、水も、管理しやすいです」


「騒がしくもない」


「ええ」


ルドヴィコは、歩きながら計算を始めていた。


場所。

人。

技術。


失った荷の代わりに、

失われなかった可能性。


前では、ベルクが止まらず進む。


山は、まだ何も言わない。


だが――

誰も、喋ることを期待していなかった。


背負われながら、

ベアトリクスは、うっすらと意識の底で思う。


――落ちなかった。

――捨てられなかった。


それだけで、

今日は、十分だった。


歩みは遅い。


だが、止まらない。


彼らは、

峠の内側へ、確実に進んでいた。


◆◆◆


アディジェ川は、山の中では珍しく、

「拒まない」流れをしていた。


急ではない。

だが、確かに力がある。


雪解けの水を含み、

底の石を転がしながら、

谷を下っていく。


一行は、その川に沿って歩いていた。


峠を越えたあとの道は、

不思議なほど、足を選ばない。


岩は丸く、

踏み外せば水音が返ってくる。


前を行くベルクが、立ち止まった。


川の向こう、

小高い岩山の上に、

石の塊が見える。


城だった。


高い。

だが、孤立していない。


道があり、

橋があり、

人の往来がある。


「……あれだ」

ベルクが言う。


「フィルミアーノ城」

ルドヴィコが目を細める。


挿絵(By みてみん)


塔の数。

城壁の厚み。

周囲の集落。

「ずいぶん……生きている城だな」


「チロル領主の城の一つだ」

ベルクは淡々と続ける。

「取引ができる」


ルドヴィコは、短く息を吐いた。

「助かる」


それは、本心だった。


背後で、

テオドールの歩みはゆっくりだ。


ベアトリクスは、

彼の背中で眠っている。


腕は、無意識に首に回されたまま。

脚は、帯で腰に固定されている。


体重は、完全に預けきっている。


エルサが、川の流れを見て言った。

「……ここからなら」


ベルクは振り向かない。


だが、聞いている。


「川を使って、移動できますね」

エルサの声は、確信に近かった。


流れ。

幅。

岸の造り。


「ええ」

ルドヴィコが即座に頷く。

「その通りだ」


「舟もある」


「荷も、流せる」

目の前の損失が、

頭の中で、少しだけ形を変える。


城門が近づく。


人が増える。


農具を担いだ男。

籠を抱えた女。

声。


市場の匂いが、風に混じる。


門番が、ベルクを見た。


一瞬だけ、目を見開き――

すぐに、一礼する。


深く。

迷いなく。

「どうぞ」


確認も、詮索もない。

中は、活気に満ちていた。


露店。

布。

金属。

見慣れない香辛料。


鉄を打つ音と、木箱を引きずる音が重なり、

人の声が、石壁に反射している。


声が、重なり合っている。


その喧騒の中で、

ベアトリクスが、ぴくりと動いた。

「……ん……?」


目が、開く。

視界に飛び込んできた色と人。

「……え……?」


声にならない声。


目を、丸くする。

「……なに、これ……」


眠りの名残も忘れて、

首を巡らせる。


城。

人。

市場。


生きている場所。


エルサが、そっと声をかける。

「着きました」


ベアトリクスは、

返事を忘れていた。


そのまま、

ベルクは歩く。


市場を抜け、

人混みを割り、

まっすぐに。


止まらない。


迷わない。


城の、

さらに奥へ。


「……おい」

ルドヴィコが、思わず声を上げる。

「だいじょうぶか」


前を行く背中に向かって。


ベルクは、立ち止まらない。


ただ、

一言だけ返す。

「問題ない」


城の内郭が見える。


兵が立つ。


だが――

止めない。


むしろ、道を開ける。

ルドヴィコは、足を止めかけた。

「……待て」


そして、問いを投げる。

「お前、どこへ行くつもりだ」


ベルクは、ようやく振り返った。

表情は、変わらない。

判断を告げる時と、同じ顔だった。

「領主の城だ」


一拍。


「俺が、領主だ」

言い切り。


説明なし。


否定の余地も、

用意していない。


風が、城壁の間を抜ける。


一行の足音だけが、

一瞬、止まった。


◆◆◆


内郭に一歩入った瞬間、

空気が変わった。


音が、落ちる。


市場の喧騒は、

厚い石壁の向こうに押し戻され、

ここでは、靴音と衣擦れだけが残る。


兵の数が増える。

だが、視線は鋭くならない。


確認ではない。

迎えだ。


通路の先で、

数人の男が立ち止まった。


装いが違う。

剣ではなく、鎖。

鎧ではなく、印章。


彼らは一斉に、膝を折った。


「お戻りでしたか」

低く、揃った声。


ベルクは頷くだけだ。

それ以上の言葉は、不要だった。


――その瞬間。


ルドヴィコの中で、

何かが音を立てて崩れた。


城。

市場。

流通。

橋。

川。


ベルクが「知っている」理由。


門番の一礼。

誰も止めなかった理由。


――ガイド。

――用心棒。

――山の人間。


違う。


すべて、

領内だった。


計算が、

一気に書き換えられる。


価格ではない。

取引でもない。


立場だ。

(……最初から)


ルドヴィコは、

自分が「対等」だと思って話していた時間を思い返し、

胃の奥が、ひやりと冷える。


一方で、

エルサは、すでに一歩先にいた。


理解したのは、

言葉よりも早い。


城の造り。

修道院との距離。

川の管理。


「取引ができる」と言った理由。


――お願いではない。

――許可でもない。


「領内での調整」だ。

(……なるほど)


エルサは、

ベルクの背中を見ながら思う。


だから、

道を選び、

止まる場所を決め、

進むと言った。


彼は、

山を知っているのではない。

山を含めて、治めている。


ベアトリクスは、

そのすべてを、

背中の上から聞いていた。


完全に目は覚めている。


だが、

声を出さない。


聞いてしまった。

「俺が、領主だ」


その一言。


胸の奥で、

小さな何かが、跳ねた。

(……聞いて、よかったのかな)


そう思った瞬間、

すぐに、別の考えが浮かぶ。

(……本当は)


(最初から、

 聞いちゃいけない気がしてた)


ベルクが、

「通されたのは昨日までだ」と言った時。


雪崩の前で、

迷いなく前に出た時。


名前を言わず、

判断だけを渡してきた時。


全部、

「そういう人」だった。


知らない方が、

楽だったかもしれない。


でも――


ベアトリクスは、

ぎゅっと、テオドールの首に回した腕に力を入れる。

(……捨てられなかった)


それが、答えだった。


ベルクは歩く。


城の奥へ。

領主の席へ。


何事もなかったかのように。


だが、

一行の中で、

同じ景色を見ている者は、もういなかった。

峠を越えた先で、

景色は確かに変わった。


人の声があり、

流れがあり、

止まらない場所がある。


だが――

同じものを見ていても、

同じ意味にはならない。


背負われた者。

背負った者。

計算を失った者。

すでに理解していた者。


そして、

「聞いてはいけないと思っていたこと」を、

聞いてしまった者。


誰も、間違ってはいない。

ただ、それぞれの立ち位置が、

静かにずれただけだ。


山は、何も語らない。

だが、

語らなくていい答えだけが、

確かに残った。


彼らは、もう同じ景色には戻れない。

それでも歩みは止まらない。


物語は、

その内側へ進んでいく。

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