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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
止める者、止まるもの、選ばれる道 ― アルプス越え編 ―
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番外編 - だからこそ、沈黙するケルンの鐘

この番外編で描かれるのは、

一つの場所で下された、静かな決断だ。


多くの人が集まり、

怒りが集まり、

そして力が集まった夜。


誰かが前に出て、

誰かが引き返し、

誰かは「来ただけ」で役目を終えた。


だが、物語の中で

光が当たる場所は、いつも一つとは限らない。


この夜、

同じ時刻に、

別の場所でも、

人知れず均衡が揺れていた。


それが何であったのかは、

ここではまだ語られない。

最初は、音だった。


重い木を叩く、鈍い衝撃。

鉄が噛む、嫌な擦過音。


ケルン大司祭は、祭壇の前に立てずにいた。

祈りの言葉は、もう何度も途切れている。


「……まだ、持つのか」

誰に向けた問いでもない。


大聖堂の扉は厚い。

だが、無敵ではない。


外には、大斧。

松明。

群衆。


武装した職人たちの顔が、脳裏に浮かぶ。

見知った者もいる。

洗礼を授けた者もいた。


「リヒャルトは……」

口に出して、すぐ後悔した。


——遠すぎる。

——間に合う距離ではない。


それは、理屈では分かっている。

それでも、名を呼ばずにはいられなかった。


扉が、軋む。


木目が悲鳴を上げるように割れ、

外の光が、細い線になって差し込む。


誰かが叫ぶ。

「破れます!」


「松明を——!」


逃げ道はない。

裏口も、側廊も、

すでに塞がれている。


——破門を宣告すべきだったのか。

——もっと早く、譲るべきだったのか。


後悔が、次々に浮かぶ。

だが、どれも今は意味がない。


意味があるのは、

この扉が破られた後に起きることだけだ。


火。

血。

聖堂という名の、ただの建物。


「……主よ」

やっと、声が出た。


だが、続く言葉がない。


祈りとは、

言葉を知っている者が唱えるものだ。


今の彼には、

恐怖しか残っていなかった。


扉が、もう一度、大きく揺れる。


外から、怒号が重なる。


大司祭は、

自分が司祭である前に、

一人の老人であることを、

その瞬間、はっきりと自覚した。


——これは、終わる。


誰が来ようと。

誰が来まいと。


その覚悟だけが、

静かに、胸の底に沈んだ。


扉が、きしんだ。


楔が外れ、

木と鉄の境目に、炎の光が滲む。


「——押せ!」

外の声が、はっきりと聞こえた。


その瞬間だった―—


低く、長い音が、空気を裂いた。


——角笛。


歌ではない。

合図だ。


怒号が、一瞬だけ止まる。


二度目の音。

今度は短く、鋭い。


命令の響き。


大司祭は、反射的に顔を上げた。


外が、ざわめく。

だが、さっきまでのそれとは違う。


混乱。

戸惑い。

恐怖が、逆流する音。


「……何だ?」

誰かが言う。


三度目の角笛が鳴った。


遠いはずの音が、

近い。


馬の蹄。

鉄の擦れる重さ。

揃った足並み。


——軍だ。


扉の向こうで、誰かが叫ぶ。

「騎兵だ!」


「重装騎兵だ、下がれ!」

松明が落ちる音。

斧が、石に当たって転がる。


大司祭は、動けなかった。


祈りは、まだ戻らない。

だが——


終わらなかった。


それだけが、分かった。


角笛が、もう一度鳴る。


今度は、

追い払うための音だった。


大聖堂の扉は、

最後まで破られなかった。


大司祭は、胸に手を当てる。


震えている。


それが恐怖なのか、

安堵なのか、

もう区別はつかなかった。


ただ一つだけ、確かなことがある。


——神の声ではなかった。

——だが、人の声が、間に合った。


角笛の余韻が消えた後も、

その音は、

彼の耳の奥で、長く鳴り続けていた。


重装騎兵は、突っ込まなかった。

止まった。


それだけで、空気が変わる。


盾が前に出る。

槍が、水平に揃う。

馬は鳴かない。


——訓練されすぎている。


突撃は一度きりでいい。

相手は、訓練された兵隊ではない。


石畳に散った松明が踏み潰され、

斧を構えた者の前に、

訓練された鉄の壁が迫る。


「下がれ!」

誰かが叫ぶ。


さらに、後ろにももう一列、騎兵がいる。

逃げ道は、最初から計算されていた。


剣は、最小限しか振るわれなかった。

血も、少ない。


それでも、

制圧は完全だった。


誰も叫ばない。ただ、息の仕方だけが変わった。


戦いではない。

処理だ。


◆◆◆


——鳴った。


会頭は、反射的に数を数えた。


低音。

短音。

確認。


軍の合図だ。


「……馬鹿な」

喉が、ひくりと鳴る。

「この距離を……

 この時間で来れるわけが——」


角笛が、もう一度。


今度は、はっきりと近い。


「……騎馬兵だけなら、押し切れる」

言いながら、

自分が信じていないのが分かった。


騎兵だけではない。

この音は——


「会頭!」

見張りが、息を切らして叫ぶ。


「城外です!

 荷車が、もう列を作っています!」

一瞬、理解できなかった。

「……輜重?」


「はい。

 補給が、もう——」


その時、

世界が裏返った。


補給が来ているということは、

分かっていた者がいるということだ。


「……内通者がいる」

口にした瞬間、

周囲の空気が、冷えた。


疑いが、全員に向く。


「撤退だ」

——だが、誰も戻る方向を知らなかった。


◆◆◆


扉の内側で、

大司祭は、ただ立っていた。


怒号が遠ざかる。

斧の音が、消える。


代わりに残ったのは、

規則正しい蹄の音だけだ。


——終わった。


そう理解した瞬間、

胸の奥が、ゆるんだ。


「……救われた」

その一言が、

喉から零れ落ちた。


祈りではない。

賛美でもない。


事実の確認だった。


神ではなく、

——人の判断で。


大司祭は、

その現実から、目を逸らさなかった。


逸らせなかった。


それが、

この夜で、最も大きな変化だった。


広場は、静まり返っていた。


重装騎兵は、隊列を崩さない。

剣は下げられ、槍は立てられたまま。


血は少ない。

死体も、ない。


それでも、

誰も拍手をしなかった。


民衆は、距離を保ったまま立っている。

助かったはずなのに、

近づこうとしない。


——彼らは分かっている。


これは救出ではない。

制圧だ。


重装騎兵は歓声を求めない。

誇示もしない。


ただ、

仕事が終わった後の顔をしている。


そこへ、馬が進み出た。


埃をまとった鎧。

飾り気のない兜。


リヒャルトだった。


彼は、広場を一度見回す。

騎兵。

民衆。

閉じたままの大聖堂の扉。


そして、低く言った。


「剣は抜いていない」

誰に向けた言葉でもない。

「戦ってもいない。

 ただ、来ただけだ」


誰かが、

「英雄だ」と言いかけて、

口を閉じた。


リヒャルトは続ける。

「英雄なら、

 剣を鞘から抜いて勇敢に戦うのだろう」


その言葉で、

空気が一段、冷えた。

「今日は、血を流すことなく終わらせた。

 それだけだ」


騎兵の一人が、わずかに姿勢を正す。

だが、誰も声を上げない。


喝采は、起きない。


起きてはいけないと、

全員が本能的に理解していた。


リヒャルトは、馬を止める。

「ここは、神の場所だ」


大聖堂を見上げる。

「軍が称えられる場所ではない」


そう言って、

馬首を巡らせた。


背中に、

英雄の影はない。


あるのは、

選択の結果だけだった。


重装騎兵は、

静かに、後に続く。


広場に残ったのは、

救われたという実感と、

それを喜びきれない沈黙だけだった。


最初に声を上げたのは、

広場の端にいた、名もない男だった。


「——皇帝陛下万歳!」


誰に向けた叫びか、

本人にも分かっていなかった。


ただ、

沈黙が怖かった。

この静けさの中で、

何かを言わなければならない気がした。


一拍。


誰も、止めなかった。


「皇帝陛下万歳!」


別の声が重なる。

今度は、少し大きい。


「皇帝陛下万歳!」

「皇帝陛下万歳!」


声が増える。

重なる。

意味よりも、勢いだけが伝播していく。


助かった理由は、

物資であり、判断であり、

一人の男の決断だった。


だが、群衆はそれを

理解できる言葉に持っていなかった。


だから、

知っている一番大きな名を叫ぶ。


——皇帝。


重装騎兵の列が、

わずかに緊張する。


剣は抜かれない。

だが、手は離れない。


リヒャルトは、馬上で動かなかった。

歓声が、広場を満たしていく。


その中心に、

彼は立っていた。


それでも、

その責任だけは、こちらに向かって流れてくる。


「皇帝陛下万歳!」


声は、まだ広場に残っている。

だが、リヒャルトの耳には、もう届いていなかった。


彼の脳裏に浮かんでいたのは、

小さな背中だった。


馬車の中で、

寒さに肩をすくめていた姿。

何も言わず、

それでも目だけで周囲を見ていた少女。


——ベアトリクス。


「英雄になるつもりはない」

リヒャルトは、誰にも聞こえない声で言う。

「皇帝の名を背負う気もない」


戦争は嫌いだ。

若い頃に、嫌というほど知った。


それでも——

「……安心して眠れる場所を残すためなら」


一歩、踏み出す。


挿絵(By みてみん)


剣のためではない。

名のためでもない。


ベアトリクスが、

何も知らずに笑っていられるなら、

自分が汚れ役を引き受ける。


それが、

六十を越えて選ぶ戦いでも、構わない。


「まあ、なんだ……」


小さく息を吐く。

「悪くない理由だ」


その決意は、

誓いの言葉にもならず、

旗にも刻まれない。


だが、

リヒャルト自身を縛るには、

十分すぎるほど強かった。


リヒャルトはエルサの言葉も思い出す。

「あなたは、自分の人生を止めていただけです」

(まったく、よくも躊躇なく言ってくれたものだ)


彼は、もう一度だけ広場を見る。

そして、背を向ける。


戦いに身を投じる覚悟は、

その背中に、

静かに、しかし確かに刻まれていた。

この夜、

リヒャルトは街を守るために立っていた。


剣を抜かず、

英雄にもならず、

ただ秩序が崩れないように、

一つの場所を引き受けていた。


その一方で、

すでに語られた通り、

彼が守ろうとした少女は、

別の場所で、

命の危険にさらされていた。


この二つの出来事は、

因果ではなく、

同時に起きていた現実だ。


誰かが街に留まり、

誰かが山を越えていた。


すべてを見渡せる場所など、

最初から存在しなかった。


この章は、

救えたものと、

すでに危機を通過したものが、

同じ夜に存在していたことを示している。


守るとは、

過去も含めて引き受けることなのだと、

この静かな夜は語っている。

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