第10話 - すなわち、牙をむく山、それに気づく人
山は、教えてくれる。
いつ止まるか。
いつ歩くか。
何を捨てるべきか。
だが――
教えたからといって、
守るとは限らない。
この日、彼らは知る。
山が牙を持っていることを。
炭小屋を出て2日経過し、
峠で最も高い道を超えたあたり・
最初に異変に気づいたのは、
ベルクではなかった。
音だった。
雪が鳴く音が、
一拍、遅れた。
それだけ。
だが、テオドールは足を止めた。
「……?」
踏み出した次の一歩が、
わずかに沈む。
深くはない。
だが――柔らかすぎる。
ベルクが、即座に腕を上げた。
「止まれ」
短く、鋭い声。
一行が止まる。
その瞬間だった。
――ズズッ。
足元の斜面が、
息を吸うように動いた。
「――下がれ!!」
ベルクの声と同時に、
雪が割れる。
轟音ではない。
悲鳴のような音でもない。
ただ、
重いものが、黙って落ちる音。
雪崩だった。
小規模だが、
十分すぎる量。
ベルクが一人、前に出る。
迷いがない。
「馬車を切れ!」
「えっ――」
「荷だ!
今すぐ!!」
テオドールは理解した。
判断が一瞬遅れれば、
馬が終わる。
「切れ!」
怒鳴る。
革紐が、
ナイフで断ち切られる。
馬が、悲鳴のような息を吐き、
前に跳ねた。
次の瞬間、
馬車の後部が雪に呑まれた。
荷が消える。
音もなく。
ベアトリクスが、声を上げかけ――
出なかった。
エルサが、後ろから彼女を抱き寄せる。
「見てはいけません、惹きこまれる」
雪は、そこで止まった。
斜面は、何事もなかったように静まる。
だが――
道は、半分、消えていた。
沈黙。
ルドヴィコが、かすれた声で言う。
「……通された、
んじゃなかったのか……?」
ベルクは、ゆっくりと振り返る。
怒っていない。
焦ってもいない。
ただ、当然だという顔だった。
「通されたのは、昨日までだ」
それだけ。
馬の脚を、確かめる。
震えているが、
折れてはいない。
「……生きてる」
テオドールの独り言。
ベルクはテオドールを見る。
「分かったか」
問いではない。
確認だった。
「山は、
許すことと、守ることを混同しない」
テオドールは、緊張で喉がカラカラになっている事に気づいた。
――そうだ。
宿で教えられたのは、
“正解”ではない。
条件だ。
ベアトリクスが、
小さく呟く。
「……昨日は、
喋ってたのに」
ベルクは、一瞬だけ視線を向ける。
「今日は、機嫌が悪い」
それだけ言った。
言い訳も、説明もない。
風が、強くなる。
雪が、再び鳴き始める。
「進む」
ベルクは言う。
「戻れば、次はもっと危ない」
誰も反論しなかった。
反論できるだけの、
余裕がなかった。
テオドールは、
失われた荷のあった場所を一度だけ見て、
歩き出す。
――山は、
喋ることもある。
だが、
噛まないとは、言っていない。
その事実を、
全員が、身体で理解していた。
◆◆◆
夜は、早く来た。
雪崩のあと、
山は何事もなかったかのように静まり返り、
一行は風を避けられる岩陰に身を寄せた。
火は小さい。
燃やせるものを、増やす理由がなかった。
ベアトリクスは、眠れなかった。
外套に包まり、
目を閉じているつもりで、ずっと起きている。
耳に残っているのは、音だった。
落ちる音。
叫びではない、
黙って消える音。
――あれが、人だったら。
考えてはいけないと分かっているのに、
思考が、勝手にそこへ行く。
身体が、少し震えた。
気づいたエルサが、何も言わず隣に座る。
背中を、外套越しに支える。
「……怖い?」
囁く声。
ベアトリクスは、少し考えてから頷いた。
「……山が、
昨日と違う」
エルサは、否定しなかった。
「ええ」
それだけ。
それ以上、言葉はいらなかった。
火の向こうで、
ルドヴィコが膝を抱えて座っている。
顔は伏せている。
だが、眠ってはいない。
頭の中で、
数字が落ちていた。
――失った荷。
革。
金具。
保存食。
売却予定。
契約。
合計。
計算は、すぐに出る。
だからこそ、
考えないようにしても、出てしまう。
「……参ったな」
誰にともなく、呟く。
声は、驚くほど静かだった。
これが盗賊なら、
怒鳴れた。
嵐なら、
諦めがついた。
だが――
山だ。
文句の言い先が、存在しない。
ルドヴィコは、
ゆっくりと息を吐いた。
「……死ななかっただけ、
安い、か」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
ベルクは、少し離れた場所に立っている。
火に背を向け、
闇の方を見ていた。
誰も話しかけない。
話しかける理由がない。
しばらくして、
ベルクが言う。
「夜が明けるまで、
動くな」
命令ではない。
確認でもない。
ただの、事実。
ベアトリクスは、
その背中を見つめながら、小さく呟いた。
「……やっぱり、
山、喋らなくなった」
ベルクは、振り向かなかった。
「喋る日は、終わった」
それだけ。
火が、ぱち、と鳴る。
誰も驚かない。
それでも全員が、
次は何が失われるのかを考えずにはいられなかった。
荷か。
道か。
時間か。
あるいは――
人か。
夜は、
まだ、半分も終わっていなかった。
◆◆◆
異変は、音もなく来た。
朝だった。
火を落とし、
凍った空気の中で歩き出す準備をしている最中、
ベアトリクスが、ふらりと一歩、前に出た。
そのまま、
膝を折った。
「……?」
倒れたわけではない。
崩れた、に近い。
エルサが即座に支える。
「ベアトリクス」
呼びかけに、返事はある。
「……だいじょうぶ……」
だが、声が熱を帯びている。
額に触れた瞬間、
エルサは分かった。
「……熱」
ルドヴィコが息を呑む。
「まさか……
昨日までは……」
「昨日です」
エルサは、きっぱりと言った。
「昨日の夜、
身体が冷えたまま、緊張が切れた」
ベルクは、すでに近くに来ていた。
何も聞かない。
何も言わない。
ただ、ベアトリクスの顔を見る。
頬が赤い。
唇が乾いている。
呼吸が、浅い。
「……ここでは、無理だ」
短い判断。
迷いはない。
「山小屋がある」
エルサが顔を上げる。
「歩けますか」
「担ぐ」
それだけ。
ベルクは背を向け、
ベアトリクスを背負う。
躊躇は一瞬もなかった。
山は、また口を閉ざしている。
だが――
判断は、早かった。
◆◆◆
小屋は、風を避ける位置にあった。
古い。
だが、崩れてはいない。
ベルクは扉を開け、
中を確かめる。
「入れ」
中は暗く、冷たい。
だが、外よりは確実にましだった。
ベアトリクスは、
半分、意識が飛んでいる。
「……ねえ」
掠れた声。
エルサが耳を寄せる。
「……山、
怒ってる……?」
エルサは、少し考えてから答える。
「怒ってはいないと思う」
一拍。
「ただ、
気にしていないだけ」
ベアトリクスは、
それを聞いて、少しだけ笑った。
「……そっか……」
ベルクは、薪を集めに外へ出る。
戻ってくると、
無言で火を起こした。
慣れた手つき。
余計な動きが、一つもない。
テオドールは、
その背中を見ながら思う。
――この人は、
山で「待つ」ことを知っている。
エルサは、雪を器に集め、
火で溶かす。
テオドールは、エルサが溶かした水を見て、首を振った。
「もっと温めましょう」
「……冷やすのでは?」
「頭だけです」
布を二つに分ける。
「身体を冷やすと、
逆に熱を逃がせなくなる」
「同時に塩を含めた温かい水を飲んで水分補給、
脱水を予防します」
「なるほど」
エルサは、迷わず頷いた。
テオドールは、
湯に指を入れ、温度を確かめる。
「……これでいい」
雪を溶かしただけの水を、
少量の塩で割る。
「一気に飲ませないでください。
少しずつ」
ルドヴィコが、思わず聞く。
「効くのか?」
テオドールは、首を振った。
「分からない」
一拍。
「でも、
悪くはなりません」
ベルクが、そのやり取りを見ていた。
何も言わない。
だが、
止めなかった。
エルサがベアトリクスの頭を冷やし、
身体を拭く。
「清潔に」
自分への短い指示。
テオドールとルドヴィコは部屋の温度を上げる為、
暖炉に薪をくべ、全員分の寝床を作る。
ベルクは、薬草を探しに出た。
名前は、言わない。
戻ってきたとき、
それが何かも、説明しない。
ただ、
煎じ方だけを、伝える。
「……効く」
それだけ。
ベアトリクスは、
うわ言のように呟いた。
「……エルサ
あたし……」
言葉は、そこで途切れた。
眠りに落ちたのだ。
エルサは、
その寝顔を見ながら、
小さく息を吐く。
「……怖くなかったわけでは、ありません」
独り言のように。
ベルクはおもむろに床に敷かれている毛皮をめくり、
床板を取り外し、そこから干し肉とチーズをとりだす。
「食え、自分の体力にも気をつかえ」
中央のテーブルにそれらを置く。
「馬を見てくる」
ベルクは小屋を出て馬小屋に藁を追加する。
雪は、降っていなかった。
山は、まだ――
奪い切ってはいない。
失われたのは、荷だけではない。
昨日まで信じていた
「分かっていれば大丈夫だ」という感覚が、
静かに、しかし確実に消えた。
山は敵ではない。
だが、味方でもない。
ただそこに在り、
踏み込んだ者すべてに、
同じ重さを返すだけだ。
彼らはまだ、峠を越えていない。
だが――
戻れない地点には、もう立っている。




