第09話 - おもしろいわ!炭小屋から広がる道
山の朝は、言葉より先に手を動かす。
火が残っているか。
水は足りるか。
昨日の続きが、今日も続けられるか。
炭小屋は、ただの避難所ではない。
そこは、山が人に「やってみろ」と言う場所だ。
生きるための手順が、ひとつの屋根の下に集まる。
まだ峠は続く。。
だが――
仕事は、もう始まっている。
夜明けは、音から始まった。
炭が、静かに割れる音。
湿った薪が、わずかに息を吐く。
炭小屋の中で、火は落ち着いていた。
赤く燃え上がることもなく、
白く死ぬこともなく――ただ、保たれている。
最初に目を覚ましたのは、エルサだった。
身体を起こし、外套を整える。
寒さはある。
だが、震えるほどではない。
炭小屋の壁は厚く、
夜のあいだに溜めた熱を、まだ手放していなかった。
次に起きたのは、テオドール。
目を開けると、無意識に火床を見る。
火を見る癖が、すでに身体に染みついている。
一番遅かったのは――
「……朝、ですか……?」
ルドヴィコだった。
声はまだ半分、夢の中だ。
だが昨夜より、顔色は戻っている。
ベアトリクスは、起きていた。
起きてはいるが、炭袋にもたれて動かない。
「……ここ、黒い……」
不満とも感想ともつかない一言。
エルサは何も言わず、
その肩に外套を掛け直す。
「……ありがとう」
今度は、はっきりした声だった。
外で、足音がした。
複数。
重く、慣れた歩き方。
炭小屋の扉が開く。
ベルクが先に立ち、
その後ろに、二人の男が続いていた。
顔も手も、煤で黒い。
狩をしながら空いた時間で炭焼きをする猟師達だ。
「ここだ」
ベルクは、それだけ言う。
猟師の一人が、袋を開け、炭を掴む。
指の間で転がし、音を聞く。
眉が、わずかに寄った。
「……ばらついてますな」
ベルクは、テオドールを見る。
「だそうだ」
促しでも、命令でもない。
テオドールは一歩、前に出る。
「火の入りが、均一じゃありません」
炭を並べ、指で示す。
「窯の中央が、息をしていない。
通気が足りないんです」
猟師は、黙って聞いている。
「材を分けてください。
太いものを外、細いものを内」
地面に、簡単な図。
「空気穴を三つ。
焼き始めと、終わりで塞ぎ方を変える」
一人が、息を呑んだ。
「……理屈は、合ってる」
もう一人が、ベルクを見る。
判断を仰ぐ視線。
ベルクは、頷かない。
首も振らない。
「やるかどうかは、好きにしろ」
低い声。
「だが――
山は、嘘を嫌う」
猟師たちは、深く頭を下げた。
ベルクではない。
テオドールに。
「……試します」
短く、それだけ言って去っていく。
炭小屋に、静けさが戻る。
その沈黙の中で、
ベルクは改めて小屋を見回した。
壁。
床。
火床。
煙の抜け。
外へと続く、細い水溝。
「……いい小屋だ」
ぽつりと、そう言った。
テオドールが言葉を継ぐ。
「炭だけじゃありません」
ベルクが、視線を向ける。
「狩猟で獲ってきた獲物の皮も、
ここなら、すぐ手を入れられます」
炭の残り熱。
煙。
水。
「血抜き、肉の切り離し、脂の処理」
「火が近すぎず、水も凍らない」
「煙があるから、虫も寄らない」
「夜明け前に狩りが終われば、
夜明けと同時に、皮仕事に入れる」
ベルクの目が、細くなる。
「……狩りは、夜明けで終わる」
確かめるように言う。
「だが、皮は、
朝のうちに手を入れねば死ぬ」
一拍。
「無駄が出ない」
はっきりとした声だった。
ベルクは、テオドールを見る。
「――やってみろ」
短い言葉。
だが、それは命令ではなかった。
「炭だ。
皮だ。
この小屋で、どこまで出来るか」
「山が納得する形を、
見せてみろ」
エルサは、その言葉を聞き、理解する。
これは同行ではない。
試されている。
ベルクは、背を向ける。
「出発は、その後だ」
空は、完全に朝だった。
炭小屋の火は、まだ生きている。
そして一行は――
山に足止めされたまま、仕事を受けた。
◆◆◆
炭小屋の外が、にわかに騒がしくなった。
足音。
息の荒さ。
そして、血と獣の匂い。
最初に現れたのは鹿だった。
若い牡鹿。
その後ろに、野兎。
山鳥。
担いできたのは、炭焼きをしていた狩人たちだった。
煤に混じって、血が乾いている。
「……早いな」
ベルクが言う。
「夜明け前に、掛かった」
それだけで十分だった。
獲物は迷いなく炭小屋の前に下ろされる。
まるで、最初から“ここ”で始めると決まっていたかのように。
ベアトリクスは、目を輝かせていた。
「……これ、全部、食べ物になるの?」
「ええ」
エルサは、もう刃を取っている。
「食べ物で、服で、道具になります」
「ふうん……」
鹿の腹を、じっと覗き込む。
「この、変な形なのはなに?」
指差したのは内臓だった。
「心臓だ、お嬢さんは見たことが無いのかい?」
狩人の一人が笑いながら答える。
「さっきまで、動いてたのよね?」
「……ああ」
「おもしろいわ!」
屈託のない声だった。
エルサは何も言わず、手を動かす。
刃の入れ方に迷いがない。
血を逃がし、
皮を傷つけず、
肉と内臓を分ける。
炭小屋の床を走る溝が、
血を外へ導いていく。
ルドヴィコは兎を前に、ぎこちなく立っていた。
「……切れるが、
どこを切るかが分からん」
「貸して」
ベアトリクスが、身を乗り出す。
小さな兎を引き寄せ、
見よう見まねで刃を入れる。
少し震えたが、
致命的な失敗はしない。
しばらくして――
「聞いて聞いて!」
弾んだ声。
「できたの!」
自分で捌いた兎を、
テオドールの前に差し出す。
「……ほら、ちゃんと分かれてる」
その瞬間。
「――ふざけるな」
低く、はっきりした声。
ベルクだった。
炭小屋の空気が、一瞬で締まる。
「命を、おもちゃにするな」
ベアトリクスは、ぴたりと動きを止めた。
「……ごめんなさい」
俯く。
ベルクは一歩、近づく。
兎を見る。
切り口。
皮。
刃の運び。
しばらく黙ってから――
「……初めてにしては、筋は悪くない」
短く、そう言った。
「無駄に傷つけていない。
怖がっても、刃を止めなかった」
視線を上げる。
「だが、
軽く扱えば、必ず雑になる」
「……わかった」
ベアトリクスは、強く頷いた。
エルサは、そのやり取りを黙って見ていた。
手は止めない。
テオドールは、火床の方へ目を向ける。
炭。
消し炭。
灰。
水桶に落ちた灰が、白く濁る。
(……アルカリ水)
血と脂を落とすには十分だ。
(原皮の下処理だけじゃない。
弱いが……なめしにも、使える)
炭焼きの工程が、
皮の工程に、自然につながっていく。
一方、ルドヴィコは肉の山を見ていた。
「……この量だ」
考える。
「そのままじゃ、持たない。腐っちまう」
「干すか、燻すかだな」
狩人が言う。
ベルクが呟く。
「燻すなら、
香り付けに草が要る」
「……ハーブか」
ルドヴィコは、顔を上げる。
「足りない分は、交易で賄えます」
はっきりした声だった。
「山で集める量には限りがある。
だが、街には余っている」
「こちらは、肉を加工する。
ソーセージにする」
「保存が利く。
軽い。
値が付く」
一拍。
「――その売り先と、
ハーブの仕入れ先」
自分の胸を、指で叩く。
「その道は、私が作ります」
ベルクは、答えない。
だが、視線を逸らしもしない。
炭小屋の中では、
解体と加工が、静かに続いていた。
血。
煙。
肉。
皮。
それぞれが、
それぞれの役割を持ち始めている。
やがて、狩人の一人が口を開いた。
「……このやり方だと」
水桶を見る。
「水が、足りませんね」
誰も、否定しなかった。
問題は、はっきりした。
次に足りないのは、水だ。
血を流し、
灰を沈め、
皮を洗う。
どの工程も、
水を欲しがる。
だが、山の水は限られている。
雪解けはまだ浅く、
流れは細い。
ベルクは、水桶を一瞥した。
「増やせん」
短く、言う。
「山の水は、
山のものだ」
それ以上でも、それ以下でもない。
テオドールは、少し考えた後、口を開いた。
「……水を、あまり使わない方法があります」
全員の視線が、集まる。
「油鞣しです」
エルサが、わずかに眉を動かした。
「……魚油や、獣脂を使う方法ですね」
「そうです」
テオドールは頷く。
「洗いの工程が減る。
水は、下処理だけでいい」
「乾燥も、炭小屋なら出来る」
ベルクは、すぐに首を振った。
「油がない」
即答だった。
「この山に、
余る油は無い」
「獣脂は食う。
魚は川に少ない」
「油鞣し用に回す余裕は、
ここにはない」
否定は、理にかなっていた。
だが――
「方法は、あります」
間髪入れず、ルドヴィコが言った。
全員が振り向く。
「ヴェネツィアなら、
油は余るほどあります」
「魚油。
植物油。
古い在庫も含めて」
「定期的に供給する契約なら、
すぐに組めます」
ベルクの目が、細くなる。
「……山に、油を運ぶと?」
「はい」
ルドヴィコは、少しだけ笑った。
「軽い。
腐らない。
運びやすい」
「こちらは皮を鞣す。
加工品を出す」
「街は油を捌ける。
山は皮を残せる」
「――釣り合います」
炭小屋の中に、沈黙が落ちる。
ルドヴィコは、さらに一歩踏み込む。
「できれば」
静かな声。
「この地方の領主と、
正式に契約できれば」
「山の仕事として、
位置づけられます」
それは、
単なる工夫ではなく――
仕組みの話だった。
ベルクは、すぐには答えなかった。
外を見る。
雪。
水脈。
山。
そして、ゆっくりと言った。
「……山を下りたら」
一拍。
「領主の屋敷に、
連れていく」
その言葉は、約束だった。
条件も、脅しもない。
「話すかどうかは、
お前たち次第だ」
「だが――」
視線が、テオドールに向く。
「山は、
筋の通った話が好きだ」
炭小屋の火が、
ぱちりと音を立てた。
水は、まだ足りない。
油は、まだ無い。
しかし――
道は、つながった。
山は、
通す価値のある者を、
見極め始めている。
火は、まだ小屋に残っている。
炭は割れ、
水は濁り、
皮と肉は、それぞれの場所に落ち着いた。
足りないものは、もう分かっている。
水。
油。
そして、それを運ぶ手。
山は、まだ答えを出さない。
だが、話す場所は示した。
上る道は、まだ続いている。
炭小屋で始まった段取りは、
やがて外へ向かう。
今はまだ、
山の中。
火のそばで、
次の朝を待っている。




