第08話 - 聞いて聞いて!山がしゃべってる!
山は、越える前に選別を始める。
足の速さでも、力でもない。
荷の重さでも、言葉の巧さでもない。
――どこまでを、自分の足で受け取るつもりか。
それを確かめるように、
夜は短く、朝は早く、道は静かだった。
この話は、
峠を越える話ではない。
峠に入る資格を問われる話だ。
湯屋を出たあとの宿は、木と石の匂いが混じっていた。
火は落とされ、客もまばらで、夜というより「山が眠りに入る直前」だった。
扉が、きしりと鳴った。
「……あの馬車は、おまえらのか?」
低い声だった。
問いかけというより、確認に近い。
振り向いた先に立っていたのは――大男だった。
背が高い。
肩幅が広い。
外套の下に隠れているはずの身体が、それでも“山のようだ”と分かる。
宿の空気が、一瞬、重くなる。
「……そうですが」
ルドヴィコが答えるより早く、男の視線はもう次に移っていた。
テオドール――ではない。
窓の外、闇の向こう。
馬車が置かれている方角だ。
「面白い揺れ方をしてた」
誰にともなく言う。
「山道向きじゃない。
だが……悪くはない」
男は一歩、踏み出した。
床が鳴る。
「俺は“ベルク”と呼ばれてる」
名乗りは、それだけだった。
「山を越えるなら、道がいる。
雪と風と、時間もだ」
そう言ってから、ようやく彼は一行を見る。
順番に。
値踏みするようでもあり、確認するようでもある。
「ガイドが必要だ」
断定だった。
テオドールは、思わず男を見上げた。
――この人間は、“道”を話していない。
時間の話をしている。
「……山を越えられる時間になったら」
ベルクは踵を返し、扉に手をかけた。
「起こす」
それだけ言って、外へ出た。
扉が閉まる。
しばらく、誰も何も言わなかった。
静寂の中で、テオドールだけが思う。
あの男は、馬車を“見に来た”のではない。
山を越える覚悟があるかを、見に来たのだ。
◆◆◆
夜は深くならなかった。
山では、完全な闇が訪れる前に、音が消える。
風が止み、獣が身を潜め、火の爆ぜる音だけが残る。
テオドールは、その静けさで目を覚ました。
――音が、ある。
外だ。
木を撫でるような、鈍い音。
窓辺に寄ると、月明かりの下に影があった。
馬車の傍に、あの大男がいる。
ベルクだった。
外套を脱ぎ、雪の上に膝をついている。
手袋を外し、素手で車軸に触れていた。
叩かない。
蹴らない。
ただ、押し、揺らし、待つ。
――時間を測っている。
テオドールは息を殺した。
ベルクは、板の継ぎ目に指を差し入れ、
革紐を一度だけ引き、
それから――何も言わず、笑った。
「……いいな」
独り言だった。
やがて彼は立ち上がり、馬車全体を見渡す。
最後に、屋根を軽く叩いた。
合格。
そんな仕草だった。
翌朝。
まだ夜と朝の境目だった。
宿の扉が、内側から叩かれる。
ドン、ではない。
ゴン、と一度だけ。
「起きろ」
ベルクの声だった。
「今だ」
それだけ。
誰も理由を聞かなかった。
聞く必要がなかった。
外に出ると、空は薄く青みがかっている。
風はない。
雪も鳴かない。
山が、通している。
馬車に近づいたベルクは、すでに準備を終えていた。
雪の状態、轍の深さ、斜面の陰。
眠そうなルドヴィコ。
無理をして立つベアトリクス。
息の乱れていないエルサ。
そして、テオドール。
「馬車は――」
一拍。
「持っていける」
ルドヴィコの顔が、ほっと緩む。
だが、ベルクは続けた。
「人は、歩け」
淡々とした声だった。
「積み荷が重い」
それだけ。
誰も、すぐには理解できなかった。
「馬は、道を選べん」
ベルクは馬の脚をやさしく撫でる。
「人と同じ重さを、
同じ距離、同じ時間、運ばせると――」
一瞬、言葉を切る。
「途中で潰れる」
脅しではない。
事実の提示だった。
「馬が駄目になれば、
馬車も、荷も、山も越えられん」
ベルクは一行を見る。
「だから、歩け」
それ以上、何も足さなかった。
ルドヴィコは口を開きかけ、
やめた。
「……理屈は、分かりました」
眠そうな声だが、納得している。
ベアトリクスは、小さく頷く。
エルサは、何も言わない。
ただ、すでに歩く準備をしていた。
「行けるな」
問いではない。
ベルクは歩き出す。
誰も異を唱えない。
エルサが、一歩だけ遅れた。
ベルクは振り向かなかった。
だが、言った。
「……何だ」
「……いいえ」
エルサは首を振る。
「山を“借りる”のではなく、
山を壊さずに通るやり方ですね」
ベルクの足が、止まった。
ほんの一瞬。
「……分かるか」
「ええ」
「余計なことは言うな、
体力をムダに使うだけだ」
「承知しています」
短いやり取り。
その背後で、
ベアトリクスが小さく呟く。
「……お馬さんも、大変なのね……」
ルドヴィコが、苦笑する。
「商売でも同じだな……
壊れたら、全部止まる」
ベルクは何も言わず、先を行く。
「行くぞ」
それだけで、十分だった。
雪は、まだ鳴かなかった。
◆◆◆
宵闇が忍び寄る山道で小屋が見えたとき、
誰よりも早く崩れ落ちたのは、人だった。
「……ここ、ですか……?」
ルドヴィコはそう言いながら、
入口の丸太に背を預け、そのままずり落ちた。
膝が笑っている。
息が、商談のときより荒い。
ベアトリクスは立っている。
――が、立っているだけだった。
足先に力が入らず、
外套の裾を握ったまま、しばらく動かない。
目は開いているが、
焦点が合っていない。
エルサは違った。
小屋の前で一度立ち止まり、
呼吸を整える。
肩で息はしていない。
足取りも、まだ確かだった。
ベルクは、その様子を一瞥すると、
馬のもとへ。
「頑張ったな」
声を掛ける。
頭も撫でまわす。
そして、脚に触れる。
前脚。
後脚。
蹄の縁。
腱。
指先で、温度を確かめる。
わずかに、押す。
馬は身じろぎもしない。
「……まだ、持つな」
独り言のように呟く。
だが、その声は低く、確信に満ちていた。
「この炭小屋で泊まる」
テオドールは、その様子を見ていた。
――この人は、
馬を“数”として見ていない。
小屋の中に入る。
炭の匂いが、強い。
壁際に積まれた麻袋。
炭。
テオドールは、そこで足を止めた。
黒が、揃っていない。
大きさ。
割れ方。
軽さ。
――解析。
視界の端に、淡い光。
【炭化度:不均一】
【原因推定:通気不足/配置偏り】
炭を一つ、手に取る。
砕く。
音が、違う。
「……均一じゃありませんね」
一瞬。
「――わかるのか!」
ベルクの声が、炭小屋に響いた。
外から戻ってきていた。
「お前は、炭がわかるのか」
ベルクは笑っているわけではない。
だが、機嫌は明らかに良い。
テオドールは頷く。
「革と同じです」
「……ほう?」
「均一じゃない負荷は、
どこかを必ず壊します」
ベルクは、一拍置いたあと、
大きく息を吐いた。
「……なるほどな」
それ以上は言わない。
だが、炭袋を一つ掴み、
重さを確かめる。
「こいつも、
歩かせすぎた火だ」
ベルクがテオドールに向き直る。
「朝、炭作りの仲間が来る。
その時にお前から説明してくれ。」
◆◆◆
炭小屋の中は、思ったより静かだった。
火が落ち着き、
炭が赤くならない温度で、ただ熱を溜めている。
ルドヴィコは壁に背を預け、目を閉じている。
眠ってはいないが、もう起きている理由もない顔だ。
エルサは、外套を畳み直している。
動きに無駄がない。
ベアトリクスは――
じっと、ベルクを見ていた。
ベルクは入口近くに立ち、
外の暗さと、雪の匂いを確かめるように、しばらく黙っている。
まるで、風の音を聞いているようだった。
「……ねえ」
唐突に、ベアトリクスが言った。
誰に向けたとも言えない声。
「ベルクって……」
一拍。
「山が、喋ってるみたい」
空気が、止まった。
ルドヴィコが片目を開ける。
エルサは、手を止めた。
テオドールだけが、
――ああ、言いそうだ、と思った。
ベルクは、すぐには振り向かなかった。
怒った様子もない。
否定もしない。
ただ、少しだけ顎を上げる。
「……そうか」
それだけ。
ベアトリクスは慌てて言い足す。
「えっと、悪い意味じゃなくて……
なんていうか……」
言葉を探して、失敗する。
「……ちゃんと、
起きる時間も、止まる時間も、
知ってる感じがする」
ベルクは、ようやく振り返った。
目が合う。
その視線は、いつもより柔らかい。
「山はな」
低い声。
「喋らん」
一拍。
「だが、
聞く奴がいれば、答える」
ベアトリクスは、目を瞬かせた。
「……じゃあ、
ベルクは?」
ベルクは、少しだけ口の端を上げる。
それは笑顔というには、あまりに小さい。
だが――確かに、機嫌は悪くない。
「代弁してるだけだ」
エルサが、静かに息を吐く。
「……やはり、
喋ってますね」
ベルクは、肩をすくめた。
「修道女まで言うな」
だが、止めなかった。
ベアトリクスは、少し考えてから、
小さく頷いた。
「……うん。
やっぱり、山だ」
ベルクは、何も言わず外を見たまま、
それでも――
否定は、しなかった。
炭が、ぱち、と小さく鳴る。
その音に、誰も驚かない。
まるで、
山が返事をしたみたいだった。
山は、何も語らない。
それでも、
耳を澄ませば、返事は返ってくる。
歩く速さ。
止まる判断。
壊さないための遠回り。
それらを「面倒」と切り捨てる者は、
きっと向こう側には行けない。
この夜、彼らはまだ峠を越えていない。
だが――
山のやり方だけは、確かに教えられた。
あとは、
それを守れるかどうかだ。




