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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
止める者、止まるもの、選ばれる道 ― アルプス越え編 ―
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第07話 - 絶望的展開!?混浴しかない温泉なのか!

峠を越える前に、

人はときどき、立ち止まる。


それは恐れでも、怠けでもない。

身体を温め、呼吸を整え、

「一緒にいる」という事実を、確かめるための時間だ。


湯は、問いを投げかけない。

ただ、そこにある。

谷を越える風は冷たかった。

ブレンナー峠に近づくにつれ、空気は薄く、音は少なくなり、馬車の軋みだけが規則正しく残る。


その中で、不意に匂いが変わった。

硫黄と、湿った石と、どこか甘い湯気。


「……あれは、湯だな」


ルドヴィコが先に言った。

商人の鼻は、宿と湯と市場の匂いを逃さない。


谷の斜面に寄り添うように、小さな湯屋があった。

石を積み、屋根を低く抑え、煙だけが控えめに立ちのぼっている。

巡礼者と旅人のための、峠前の“止まり木”のような場所だ。


「入っていこう」

ルドヴィコは即断だった。

「この先は、身体を冷やすだけ損だ」


エルサも頷く。

「修道院でも、旅の前後には湯を使います。ここまで整っているなら、むしろ幸運です」


ベアトリクスは一瞬、建物を見上げただけで、すぐに興味を湯気へ移した。

「……あったかそう」


その一言で、決まった。


◆◆◆


湯屋の中は、思っていたより簡素だった。

仕切りは低く、視線を遮るというより、ただ流れを分ける程度のもの。

湯船は一つ。

湯は惜しみなく、静かに満ちている。


「……混浴、ですね」

テオドールだけが、声を落とした。


ルドヴィコは首を傾げる。

「峠の湯屋なんて、だいたいこうだろ?」


エルサも特に気にした様子はない。

「作業の湯でもありますから。湯は、身体を洗うものです」


ベアトリクスはすでに脱衣が終わり、湯の縁に近づいていた。

「早く入ろうよ!」


その言葉に、テオドールだけが一拍、遅れる。


――理屈は分かっている。

ここでは特別なことではない。

だが、分かっていることと、慣れていることは、別だ。

「……あの、順番、とか……」


誰も答えなかった。

というより、答える必要を感じていなかった。

目の隅であとの二人も素早く脱衣しているのが分かる、

もちろん見ない。


湯に足を入れる音が、静かに重なる。

石の間を抜ける湯の音。

吐く息が、少しだけ白くなる。


ルドヴィコは肩まで浸かり、満足そうに息を吐く。

「峠越えの前に、これは効くな」


エルサは背を伸ばし、目を閉じている。

祈る姿勢と、休む姿勢が、彼女の中では近いのだと、テオドールは思った。


ベアトリクスは、湯に浮かぶ湯気を指で追っていた。

遊びでも、警戒でもない。

ただ、初めて“何もしなくていい時間”に、身を置いているようだった。


「……テオドール?」

ベアトリクスに呼ばれて、我に返る。

「入らないの?」


「……入る。入ります」

そう答えて、ようやく湯に足を入れる。

温度は、ちょうどいい。

身体の奥に溜まっていた疲れが、静かにほどけていく。


それでも、落ち着かないのは、自分だけだった。


湯は平等だ。

だが、境界線は、身体ではなく、頭の中にあった。


テオドールは、湯気の向こうを見ないようにしながら、

この旅が、また一段階、違う場所へ入ったのだと理解していた。


湯気が少し引いた頃、ベアトリクスは気づいた。

エルサの髪が、いつもより長く、はっきり見えている。

「……全部、見える」


小さく、しかし確かな声だった。


いつもはウィンプルの下に隠れている髪。

祈りの時も、歩く時も、きちんとまとめられているそれが、今は肩から背へ、湯気の中にほどけている。


「ずるい」

ベアトリクスは、はっきりそう言った。

「なんでそんなに、きれいなの」

髪を見ながら言う。


エルサは目を開け、少しだけ首を傾げた。

驚きでも照れでもない、考える間だった。

「ベアトリクス様……黙らせてあげましょう」


そう言って、目線でベアトリクスに移動を促す。

「こちらへ。私の前に座って」


ベアトリクスは一瞬、意味を測りかねた顔をしたが、すぐに表情が明るくなった。

湯をかき分け、言われた通りに腰を下ろす。

「え?いいの?」


「ええ。編んであげます、軽くですが」

それだけで、ベアトリクスは身体の力を抜いた。

背を預けるというより、任せる、という距離感だった。


エルサの指は、慣れていた。

修道院で、年下の子の髪を整えるのと同じ動き。

引かず、急がず、重さを分ける。


「……あったかい」

ベアトリクスが、ぽつりと言う。


「湯のせいです」


「それも、だけど」


挿絵(By みてみん)


エルサは何も言わず、続きを編んだ。


少し離れたところで、ルドヴィコが喉を鳴らす。


「ブレンナー峠はな、温泉が多いのも利点の一つだ」

誰に向けたともない説明だった。


「山越えは身体を壊しやすい。

だが、ここで一度、温めて休めば、先の工程が安定する。

商隊も、巡礼も、理由は同じだ」


テオドールは、ようやく視線を上げた。

湯の向こうで、三人はそれぞれ、自然な場所にいた。


エルサは手を動かし、

ベアトリクスは任せ、

ルドヴィコは利点を数え、

自分だけが、境界線を探していた。

「……峠が越えられる理由は、道だけじゃないんだな」


テオドールがそう呟くと、ルドヴィコは満足そうに笑った。

「そういうことだ」


エルサが、最後に編み終える。

きつすぎず、ほどけにくい、実用の形。

「どうですか」


ベアトリクスは手で触れ、嬉しそうに頷いた。

「……ずるい言うの、やめる」


その言葉に、エルサはほんの少しだけ微笑んだ。


湯は、変わらず静かに満ちている。

この場所が、ただの休息以上の意味を持ち始めていることを、

テオドールだけが、遅れて理解していた。


――峠を越える準備は、もう始まっていた。


湯から上がったあとも、

ベアトリクスはしばらく、エルサのそばを離れなかった。


理由を聞かれれば、うまく答えられなかっただろう。

寒いからでも、疲れているからでもない。


――離れても、いいはずなのに。

それでも、身体が勝手に近い場所を選ぶ。


エルサは、それを咎めなかった。

手を引くことも、距離を詰めることもせず、

ただ、そこに居続ける。


「……エルサ、ありがとね」

呼びかけは、確かめるようだった。


「はい」

即座に返る声。

それだけで、ベアトリクスの肩から、目に見えない力が抜けた。


守られている、とは違う。

導かれている、でもない。


――この人は、先に歩いているだけだ。

振り返れば、必ずいる。


ベアトリクスは、その事実を初めて知った。


エルサは、修道女としてではなく、

誰かを「連れていく者」として、ここにいる。


「あの二人、上手くうち解けたな…

 正直いってどうなるか心配だったが、大丈夫!だな」

ルドヴィコがテオドールに耳うちする。


テオドールは、少し離れたところからその様子を見て、

ようやく理解した。


この旅で、

エルサは誰かを守っているのではない。


一緒に越える覚悟を、すでに選んでいる。


その隣に座る小さな背中は、

それを、言葉よりも早く受け取っていた。


◆◆◆


湯屋を出たあと、

ベアトリクスは編んでもらった髪を、もう一度、自分でまとめようとした。


指が、うまく動かない。

結び目がずれて、すぐにほどける。


もう一度。

それでも、だめだった。


息を吐く音だけが、小さく漏れる。


その横に、いつの間にか、エルサが立っていた。


何も言わない。

視線も、急かさない。


ただ、ベアトリクスの手の動きを見て、

静かに、指先を添える。


結び目を引き直し、

ほどけない位置まで、きちんと寄せる。


それだけだった。


「……できた」

ベアトリクスが言うと、

エルサは軽く頷いて、手を離した。


支えすぎない。

教えすぎない。


だが、失敗だけは、残さない。


ベアトリクスは、編まれた髪をそっと触れ、

そのまま、何も言わず歩き出した。


エルサは、少し後ろを歩く。


追い越さず、

離れず。

この夜、誰も何かを決めたわけではない。

約束も、誓いも、口にされなかった。


それでも、

背中に触れた手の重さ、

視線を外した沈黙、

何も言わずに並んだ距離が、

確かに残った。


峠を越えるのは、足だ。

だが、越えた先で離れないのは、

たぶん――こういう時間なのだ。

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