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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
止める者、止まるもの、選ばれる道 ― アルプス越え編 ―
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第03話 - おもしろいわ!冗談にできる距離

夜の話は、たいてい信用できない。


酒があり、

笑いがあり、

誰かが少し酔っている。


それでも、人は夜にだけ、

本当の話を口にしかける。


信じてほしいわけではない。

記録してほしいわけでもない。


ただ、

冗談にできる距離で、

触れておきたいだけの話がある。


この夜も、

そういう話が、

いくつか卓の上に並んだ。

ルドヴィコの客間、

呼ばれたテオドールとエルサがテーブルにつく。


外の気配は遠く、

卓の上の杯だけが、ここが現実だと教えてくれる。


「まず」

ルドヴィコは、杯を傾けながら言った。

「今回の件が、なぜまだ“絶望的展開!”に至っていないか」


テオドールとエルサは黙っている。

「理由はいくつかありますが――

 避けて通れないのが、伯爵の立場です」


「リヒャルト様、ですか」

エルサが言う。


「ええ。あの方は伯爵です」

「そして同時に」


ルドヴィコは、少し言いにくそうに続けた。

「形式上は――

 神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれている」


テオドールが、思わず眉を上げる。

「……形式上?」


「はい。十年ほど前に」

ルドヴィコは、指で空中に円を描いた。

「七人の選帝侯のうち、

 支持は四名」


「過半数ではある」

テオドールが言う。


「ですが、圧倒的ではない」

ルドヴィコは、苦笑した。

「しかも――

 あの方、イングランド王の“第二王子”でしょう?」


エルサが頷く。

「血筋は華やかです」


「ですが、ドイツ諸侯から見れば」

ルドヴィコは、肩をすくめた。

「よそ者です」


沈黙。


「だから私は思っていました」

「ファルケンブルクの公女との結婚は、

 政治的な補強だろう、と」


テオドールが言う。

「求心力の確保か」


「ええ。非常に分かりやすい」

だが、とルドヴィコは続ける。

「……見ましたか?」

「あの二人」


エルサが、ゆっくりと頷く。

「見ました」


ルドヴィコは、思わず声を上げた。

「政略結婚には見えませんよ!」


杯を置き、身を乗り出す。

「距離の取り方」

「視線」

「言葉の選び方」


「どれを取っても、

 “利害関係者”のそれではない」

テオドールは、低く言った。

「だから、違和感がある」


「ええ。非常に」

ルドヴィコは、話題を少し逸らすように続けた。

「もっと言えば」

「伯爵は――」


一拍。


「金持ちすぎる」


エルサが、瞬きする。


「ヨーロッパでも、有数です」

「鉱山を、複数」

「金、銀、銅……」


「ライン川流域の交易も押さえてます」

エルサが補足する。


「その通り」

ルドヴィコは、ため息交じりに笑った。

「正直に言って」

「商人として生まれた方が、

 歴史に名を残したでしょう」


エルサが、小さく言う。

「……戦は?」


ルドヴィコは、即答しなかった。

「噂しか、ありませんが」


少し声を落とす。

「上手い話は、聞きません」


「十字軍にも参加しています」

「ですが――」


「負けるのか?」

テオドールが言う。


「ええ」

「そして、身代金を払って帰ってくる」


「何度も」

「ええ。何度も」


沈黙。


「つまり」

ルドヴィコは、静かにまとめた。

「権威は不安定」

「軍事は不得手」

「だが、金と流通は持っている」


「……だからこそ」

エルサが言う。


「だからこそ、

 “戦争以外の勝ち方”を知っている」

ルドヴィコは、はっとしたようにエルサを見る。


「……なるほど」

テオドールも、ゆっくり頷いた。

「だから、あの反応か」


「私に対して?」

エルサが言う。


「ええ」

ルドヴィコは、慎重に言葉を選ぶ。

「伯爵は、

 “壊さずに運ぶ者”を見ていた」


「箱のように?」

テオドールが言う。


エルサは、そこで一度、視線を伏せた。

「……お話ししていませんでしたね」


そう前置きして、エルサは説明した。


自分が、ローマへ向かっていること。

個人的な巡礼ではないこと。

そして――

箱を運んでいること。

「中身は、私も知りません」

「ですが」


「扱いを誤れば、危険になるものです」


ルドヴィコは、完全に初めて聞いたという顔をした。

「……それは」


「伯爵が見ていたのは」

エルサは続ける。

「箱そのものではなく」

「それを、壊さずに運ぼうとする私の態度だった」


長い沈黙。


その空気を、軽い声が切った。

「なにそれ」


扉が少し開き、

ベアトリクスが顔を出す。

「難しい話してる?」

「ビール?」


テオドールが言う。

「そうだ」


「ずるい」

勝手に椅子を引き、座る。


場の緊張が、わずかに緩む。


ルドヴィコは、苦笑しながら言った。

「……ともかく」

「今は、まだ均衡が保たれています」


「ですが」


「この均衡は、

 伯爵の立場そのものと同じくらい、

 不安定です」


ベアトリクスが、首を傾げる。

「つまり?」

「起きるときは」


ルドヴィコは、静かに答えた。


「だいたい、まとめて来る」

杯の泡が、音もなく消えた。


◆◆◆


最初の一杯は、誰のためでもなかった。

二杯目から、ベアトリクスのものになった。


「……ねえ」


杯を両手で持ち、少しだけ頬を赤らめながら、

彼女は唐突に口を開いた。

「ルドヴィコってさ」


名指しだった。


「はい?」

ルドヴィコは、反射的に姿勢を正す。


「なんかムカつく」


「……理由を伺っても?」


「顔」


「顔、ですか」


「あと、しゃべり方」


「商人ですから」


「それがムカつく」


ルドヴィコは一瞬言葉を失い、

それから乾いた笑いを漏らした。

「これはこれは、率直なご意見を」


「ほらそういうとこ!」

ベアトリクスは、指を突きつける。


「言い返さないのもムカつく!」


「……難しいですね、こりゃ絶望的展開!」


テオドールは、杯を傾けながら言った。

「飲み過ぎだ」


「まだ大丈夫」

そう言って、彼女はぐらりと身体を揺らし、

そのままエルサの方へ身を寄せた。


「……?」

エルサが視線を落とすと、

ベアトリクスはその肩に額を軽く当てた。

「エルサは、いい匂い」


「……香油は使っていません」


「でも、いい匂い」


「そうですか」

ベアトリクスは、満足そうに笑い、

そのまま指先でエルサの髪をつまんだ。

「髪の毛、きれい」


「……触らないでください」


「やだ」

猫のように、指を絡める。


「さらさら」


「……」

エルサは抵抗しなかった。

ただ、静かに息を吐く。


テオドールが、少しだけ視線を逸らした。


「ねえ、エルサ」


「なんですか」


「ローマって、遠い?」


「……遠いです」


「じゃあね、聞いていい?」


「?」


「一緒に行ったら、おもしろい?」


その問いに、エルサは答えなかった。


代わりに、ルドヴィコが口を開く。

「楽しい旅というものはですね」


「また出た!」

ベアトリクスは、勢いよく顔を上げた。

「ほら!」

「今の!」

「今のがムカつく!」


「私は何も――」


「そういう顔!」

場に、短い笑いが落ちる。


だが、その直後だった。


扉が、静かに開いた。

「……失礼いたします」


現れたのは、年嵩の執事だった。

一歩入ったところで、状況を理解し、

ほんの一瞬だけ目を見開く。


「……ベアトリクス様」


「んー?」


呼ばれた本人は、

まだエルサの髪を指で遊ばせている。


「そろそろ、お部屋へ」


「やだ」

即答だった。


「まだしゃべる」

そういってエルサの膝に顔をうずめる。

そんなベアトリクスの頭を撫でるエルサ。


挿絵(By みてみん)


「お飲み物も、十分に――」


「ルドヴィコがムカつく話が途中」

執事は、困ったように微笑んだ。


「……このように」


「客人と、これほど楽しそうに話されるのは、

 初めてでございます」

テオドールとルドヴィコが、同時に執事を見る。

「私めは、長くファルケンブルク家に仕えておりますが」


声が、少しだけ低くなる。

「ベアトリクス様は、ご誕生の折に

 母君様を亡くされました」


エルサの手が、わずかに止まる。


「そして――」

「旦那様も」


一拍。


「数か月前、戦で」

部屋の空気が、静まった。


「それ以来」

執事は続ける。


「心を許されていたのは、

 ほとんどリヒャルト様お一人でした」


ベアトリクスは、その話を聞いていない。

エルサの膝に頬を預けたまま、

小さく寝息のようなものを立てている。


「ですから」


執事は、深く一礼した。


「今夜のこと、

 どうかご容赦ください」


そう言って、

慣れた手つきでベアトリクスを抱き上げる。


「エルサ」

半分眠った声が、名を呼ぶ。


「はい」


「……また、しゃべろ」


「……ええ」

返事を聞いたかどうかも分からないまま、

ベアトリクスは執事に連れられて去っていった。


扉が閉まる。


残された三人の前で、

ビールの泡だけが、静かに消えていった。


エルサは、しばらく黙っていたが、

やがて小さく言った。

「……揺れますね」


テオドールは、頷いた。

「だが」

「壊れてはいない」


ルドヴィコは、杯を見つめたまま、

低く息を吐いた。

「……ええ」

「今のところは」


夜は、まだ終わっていなかった。

扉が閉じてから、しばらく誰も口を開かなかった。

杯の中の泡が、完全に消えるまで。


「……さて」

最初に声を出したのは、ルドヴィコだった。


「で、テオドール君」

ゆっくりと、わざとらしく言う。

「君は、とても静かだが」


テオドールは杯を見つめたまま、肩をすくめた。

「聞き役に回っていただけだ」


「いやいや」

ルドヴィコは指を振る。

「この場に集まった人物を考えてみたまえ」


一つ、指を立てる。

「悲劇の公女」

「ほろ酔いで、猫のように甘える」


二つ目。

「禁忌の箱をローマへ運ぶ、

 正体不明の正修道女」


エルサが、静かに眉をひそめる。

「……正体不明、ですか」


「ええ。いかにも」


そして、三つ目。

ルドヴィコは、にやりと笑った。

「君だ」


「どこの没落貴族なのか」

「亡国の貴公子なのか」


「それとも――」

「今だからこそ、言いなさい」


テオドールは、思わず笑った。

「大層だな」


「この場で一番、

 “素性が分からない”のは君だ」

エルサが、そっと視線を向ける。

「……確かに」


「ほら」

ルドヴィコは楽しそうだ。

「剣は持たない」

「祈りもしない」

「だが、知識は妙に偏っている」


「職人だと言うが、

 その目は、職人だけのものではない」


テオドールは、杯を一口飲んだ。

少し、強かった。

「……言えば」

「信じるか?」


「信じるかどうかは別として」

ルドヴィコは即答する。


「面白ければ、価値はある」

その言葉に、テオドールは一瞬だけ黙った。


ほんの一瞬。


本当のことを言うか。

それとも、いつものように、曖昧に流すか。


酒の熱が、背中を押す。

「――俺は」


低い声だった。

「たぶん、七百年以上先の未来で生きていた」


ルドヴィコが、瞬きをする。

「ここより、ずっと東だ」

「世界の果てと言っていい国で」


エルサが、静かに耳を傾ける。

「錬金術師だった」

「……実験中に、死んだ」


「それで」

テオドールは、少しだけ笑った。

「魔法の力か、神の気まぐれか」

「気が付いたら、クレフェルトで」

「この身体に入っていた」


一拍。


次の瞬間。


「――はははははははは!」

ルドヴィコが、腹を抱えて笑い出した。

「いや、これは!」

「素晴らしい!」


「その手があったか!」

「七百年後の未来!」

「東の果て!」


笑いが止まらない。

「君、ユーモアの才能がある!」

「いや、これは傑作だ!」


テオドールは、苦笑する。

「そう受け取るか」


「当然でしょう!」


その時、エルサが静かに口を開いた。

「……東の果て、ですか」


「はい?」

ルドヴィコが笑いながら振り向く。

「それは」

「タタールの国、でしょうか」


テオドールが、思わず目を瞬かせる。

「……そう来たか」


エルサは、ほんのわずかに口元を緩めた。

「では、テオドールは」

「白馬に乗ったタタールの王子様ですね」


その瞬間。


「はははははは!」

ルドヴィコが、さらに笑い転げた。

「王子だ!」

「未来の、東の果ての王子!」


「なるほど!」

「それなら、その物言いも納得だ!」


テオドールは、肩をすくめる。

「ひどい話だ」


「最高の話だ!」

ルドヴィコは、涙を拭きながら言った。

「安心しましたよ」

「この場に、まともな人物が

 一人もいないことが分かって」


エルサが、静かに杯を持ち上げる。

「……それは」

「否定しません」


三人の杯が、軽く触れ合った。


夜は、まだ深い。


だが、

この話は――

今夜は、ただの笑い話として、

杯の底に沈んでいった。

何も決着はついていない。


危機は去っていないし、

謎も、重さも、

箱の中身も、

まだそのままだ。


だが――

笑い話にできた。


それだけで、

この夜は価値があった。


信じないという選択。

踏み込まないという知恵。

そして、

壊さずにそばにいるという方法。


それぞれが、

それぞれの立場で、

同じ杯を傾けただけの夜。


だが、

その距離は、

確かに少しだけ縮まっている。


次に何かが起きるとき、

この夜のことを、

誰かが思い出すかもしれない。

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