第11話 - 大丈夫!動かない谷と絶望的展開!?
同じ朝が来る。
同じ水の音。
同じ革の重さ。
同じ手順。
変わらない、ということは、
何も起きていない、
ということではない。
谷は今日も動いている。
ただ、
その動きが
どこへ向かっているのかは、
まだ、誰にも分からない。
一月が経った。
谷は、相変わらずだった。
革は揺れ、
水は流れ、
酒は、腐らない。
冬が終わっても、
工程は冬のままだ。
それはもう、
工夫ではない。
習慣になっていた。
ギルドの監視員は、
今日も回廊の端に立っている。
帳面は、
何冊目か分からない。
湯の温度。
桶の配置。
人の立ち位置。
すべて、
几帳面に記録されている。
だが――
彼は、何も分かっていなかった。
エルサは、
一度だけ帳面を覗く。
余白に、小さな文字。
「判断基準、特定不能」
彼女は、
何も言わず、
帳面から目を離した。
記録できない判断が、
この谷を回している。
それだけは、
確かだった。
◆◆◆
冬が始まる前に避難してきた難民たち
彼らの中には、
もう戻らない者が増えていた。
畑は焼け、
家は崩れ、
戻る理由がない。
聖バルトロメオの谷修道院は、
彼らを拒まなかった。
テオドールは、
彼らに革加工を教える。
「難しく考えない」
「今日は、作らない」
「量を減らす」
理由は、
後からついてくる。
「すなわち――
失敗しないためだ」
ルディは、
その横で作業をする。
背は、
また少し伸びた。
革を引っ張らなくなった。
待つことを、
覚え始めている。
「……ここ?」
「だめかな?」
テオドールは、
首を振る。
「まだ」
「革が戻る」
「要するに、
待て」
ルディは、
唇を噛み、
頷く。
「……そんな簡単なものでもないか...」
(まるでグスタフだな...)
◆◆◆
昼下がり。
谷に、
軽い足音が入り込む。
「やあ!」
声は、
やたらと明るい。
「大丈夫!」
振り向く前に、
誰か分かった。
ルドヴィコだ。
「相変わらずだな、ここは」
「壊れていない!」
スザンヌが、
桶を置く。
「……ふざけんな」
「壊れてねえ場所ほど、
厄介なんだよ」
ルドヴィコは、
肩をすくめて笑う。
「それが商売になる街も、
あるんだけどね」
監視員が、
ちらりと視線を向ける。
ルドヴィコは、
気づかないふりをした。
「今日は、
ちょっとした相談だ」
テオドールが、
手を止める。
「南だ」
その一言で、
空気が変わった。
「山を避けて、
関所を抜けて、
川に縛られない道がある」
「ローマにも、
出られる」
エルサが、
即座に問う。
「良い方法は、
ありますか」
ルドヴィコは、
一拍置いた。
「案内できる」
「速い」
「……大丈夫!」
そう言ってから、
首を傾げる。
「いや」
「正確じゃないな」
彼は、
少しだけ声を落とす。
「絶望的展開!
――にならない確率が、
今よりは高い」
スザンヌが、
腕を組む。
「要するに、
どっちも危ねえって話だ」
「その通り!」
ルドヴィコは、
笑顔であっさり頷いた。
「ヴェネツィアに来てほしい」
「革の工房を、
助けてほしい」
「需要はある」
「だが、
安定しない」
彼は、
言葉を選ぶ。
「壊れない革は、
あそこでは
自由になる」
一拍。
「……正確には、
値が付く」
「値が付いた瞬間、
数えられる」
「自由が高値で売れる街は――」
にっと笑う。
「それなりに、
物騒だ」
監視員が、
帳面に何かを書いた。
だが、
それは、
何の役にも立たない。
テオドールは、
干し場を見る。
革は、
壊れていない。
だが――
動けない。
「……ないわー」
ぽつりと漏れる。
スザンヌが、
鼻で笑う。
「やっちまうのか?」
冗談だ。
だが、
冗談に聞こえない。
エルサは、
静かに言った。
「南は、
記録の本流です」
「行かなければ、
書けないことがあります」
ルドヴィコは、
満足そうに頷く。
「大丈夫!」
「だいたい、
最悪の展開は――」
少し間を置く。
「来る前に決まってる」
その笑顔の裏に、
どれだけの条件が
隠されているのか。
誰も、
数えなかった。
◆◆◆
夕方。
風が、
干し場を抜ける。
革が揺れる。
いつも通りだ。
だが――
その揺れは、
もう、
谷の内側だけを
向いていなかった。
安定は、
留まる理由にならない。
それは、
動けなくなる前兆だ。
だが――
「大丈夫!」と笑う男が現れた時点で、
状況は、もう安全ではなかった。
◆◆◆
夜は、静かだった。
工房の火は落とされ、
桶は伏せられ、
革は干し場で眠っている。
いつも通りだ。
だからこそ、
言葉を置く余地が、
はっきりしていた。
「……行くんだな」
スザンヌが言った。
確かめる声ではない。
責める声でもない。
事実を、
口に出しただけだ。
テオドールは、
革から手を離し、
頷く。
「すぐじゃない」
「だが、
行く」
スザンヌは、
一瞬だけ、
目を伏せた。
それから、
いつもの調子で鼻を鳴らす。
「そうか」
「なら、
中途半端に戻ってくんな」
「行くなら、
向こうで全部やっちまえ!」
それは、
別れの言葉ではなかった。
仕事の指示だった。
「ここは回る」
「人もいる」
「工程も、
もう手を離れても大丈夫だ」
少し間を置いて、
付け足す。
「……寂しくねえ、
とは言わねえがな」
それだけだった。
ルディは、
黙って話を聞いていた。
一度、
天井を見上げ、
それから、
口を開く。
「……ないわー」
場違いなほど、
軽い声だった。
スザンヌが、
一瞬だけ視線を向ける。
テオドールは、
何も言わない。
ルディは、
少し考える。
眉を寄せ、
唇を動かし、
言葉を探す。
「えっと……」
「すなわち――」
そこで、
少しだけ笑った。
「悪くない、
ってこと?」
風が、
干し場を抜ける。
革が、
静かに揺れた。
スザンヌは、
何も言わなかった。
ただ、
桶を持ち上げ、
次の作業に戻る。
それで、
十分だった。
テオドールは、
ルディを見る。
少年は、
泣いていない。
だが、
逃げてもいない。
「……そのとおりだ」
否定もしない。
肯定もしない。
それが、
答えだった。
ルディは、
少しだけ胸を張る。
「じゃあさ」
「明日から、
革細工の稽古、
もう一段、
上げてもいい?」
スザンヌが、
鼻で笑う。
「言うようになったじゃねえか」
「親方気取りか?」
「ちがうよ」
ルディは、
首を振る。
「まだ、
弟子だよ」
その言い方は、
どこか、
懐かしかった。
◆◆◆
夜半。
宿舎の灯りは、
一つだけ増えている。
ルドヴィコが、
泊まることになったからだ。
彼は、
葡萄酒を口にしながら、
黙っている。
商人は、
決まった後に
余計な言葉を足さない。
監視員は、
回廊の端にいる。
帳面は、
閉じられている。
だが、
目は開いている。
エルサは、
その姿を一度だけ見て、
小さく祈った。
声はない。
だが、
それは確かに、
祈りだった。
◆◆◆
深夜。
テオドールは、
一人、
工房に立つ。
干し場の革を、
一枚、撫でる。
それは、
彼が最初に
失敗しなかった革だった。
急がず、
無理をせず、
止めるべき日に、
止めた。
その結果だけが、
ここに残っている。
壊れていない。
それは、
誇りだ。
そして――
もう、
自分だけのものではない。
安定は、
留まる理由にならない。
だが、
判断は、
確かに残った。
谷は、
今日も壊れていない。
だが、
同じ形では
いられなくなった。
行く者は、
行く。
残る者は、
回す。
そして、
判断は、
次の手に渡った。
谷は、
まだ静かだ。
だが――
この静けさは、
完成の音だった。
言葉は、
必ずしも残らない。
帳面に書かれず、
声にもならず、
それでも、
手順だけが続くことがある。
誰かは行き、
誰かは残る。
谷は壊れていない。
ただ、
少しだけ、
静かさの質が変わった。
それをどう呼ぶかは、
読む人に任せたい。




