第10話 - すなわち、冬の終わりと新たな風
冬は、
終わり方を主張しない。
ある日突然、
何かが変わるわけではない。
凍っていた水は、
少しだけ流れやすくなり、
重かった革は、
わずかに軽く揺れる。
それだけだ。
だが――
「変わらない」ことが、
この季節を越えて続くなら、
それは、
もはや偶然ではない。
安定は、
祝福であると同時に、
疑念を呼ぶ。
静かな谷にも、
視線が入り込む。
そして、
風は、
人を連れてくる。
あれから三か月が経ち、
冬は、終わろうとしていた。
谷を下りる風は、
まだ冷たい。
だが、その音は、
もう鋭くはなかった。
凍っていた水路は緩み、
石の縁に残る氷は、
昼には薄くなっている。
革の干し場では、
冬の間、
重く沈んでいた一枚一枚が、
少しだけ軽く揺れ始めていた。
春は、まだ来ていない。
だが――
冬は、確かに退いていた。
◆◆◆
工房の中は、相変わらず落ち着いていた。
湯は、温度を保ち、
水は、流れすぎず、
革は、急がされない。
なめし工程は、
もはや「特別な作業」ではない。
ルディが回していた。
少し背が伸び、
桶の縁に胸が届くようになった少年は、
朝の水を触り、
鼻先で湯気の具合を確かめる。
「……今日は、いい」
誰に言うでもなく、
そう呟く。
テオドールがいなくても、
工程は止まらない。
指示書はある。
順番も決まっている。
だが、それ以上に、
ルディの中に
「触って分かる感覚」が育っていた。
難民たちも、
今では作業の一部になっていた。
桶を洗い、
革を運び、
干し場を整える。
逃げてきた人間たちだ。
だが、ここでは
「余った手」ではない。
工程は、滞らない。
それが、何よりの証明だった。
◆◆◆
テオドールは、
冬の間、
ほとんどなめし工程に口を出していなかった。
代わりに、
工房の隅で、
革製品を作っていた。
裁断。
縫製。
加工。
手袋、
帯、
簡素な袋。
聖バルトロメオの谷修道院に来てから、
ずっと後回しにしていた作業だった。
「……やっぱ、革は、
触らないと忘れるな」
独り言のように言いながら、
刃を入れる。
革は、正直だった。
待てば、応える。
急がせれば、歪む。
それは、
どの工程にも共通している。
変わったことが、ひとつだけあった。
工房の隅。
回廊の影。
宿舎の壁際。
そこに、
「見るだけの人間」がいる。
ギルドの監視員だった。
二人。
昼と夜で交代する。
約束通り、
彼らは手を出さない。
指示もしない。
口も出さない。
ただ、
帳面に何かを書き、
見ている。
ビールの煮沸釜を。
暖気の流れを。
なめし桶を。
ある日、
監視員の一人が、
ぽつりと言った。
「……これは、
真似できん」
「何がだ」
スザンヌが、
作業の手を止めずに返す。
「ビールだ。
革だ。
熱だ」
「全部、
くっつけてる」
監視員は、
帳面を閉じる。
「工程としては、邪道だ」
「副産物を、
次に使うのもな」
「……異常だ」
スザンヌは、
鼻で笑った。
「知るか」
「腐らせてねえだろ」
返す言葉は、
それだけだった。
◆◆◆
監視員たちは、
帳面に書けなかった。
なぜ、
「作らない日」があるのか。
なぜ、
掃除に半日を使うのか。
なぜ、
無理に回さないのか。
数値はない。
秘伝もない。
記録しても、
再現できない。
帳面は、
日に日に重くなるが、
中身は、
薄いままだった。
◆◆◆
夕方。
ルディが、
干し場を見上げる。
「……いつも通り、だね」
「そうだな」
テオドールが答える。
「すなわち、
まだ壊れてない」
ルディは、
少し考えてから言う。
「……見られてるけど」
「見られてるな」
「……だめかな?」
テオドールは、
革を撫でながら言った。
「だめなら、
もう止まってる」
谷は、
静かだった。
冬は、
終わろうとしている。
だが――
視線だけは、
残っていた。
それでも、
革は揺れ、
水は流れ、
人は、
今日も手を動かす。
いつも通り。
それが、
今いちばん、
疑われていることだった。
◆◆◆
回廊に長い影が落ち、
帳面を閉じたエルサが、
珍しく、そのまま立ち去らずにいた。
工房の端で、
テオドールが革を整えている。
刃は使っていない。
ただ、撫で、
曲げ、
戻す。
「……テオドール」
呼ばれて、
彼は顔を上げた。
「なんだ?」
エルサは一歩近づく。
「以前から、
不思議に思っていました」
「『作らない日』を、
どうやって決めているのですか」
空気が、
少しだけ止まる。
スザンヌが、
少し離れたところで
桶を洗いながら、
ちらりとこちらを見る。
「……今さらか」
テオドールは、
少し考えてから言った。
「感覚じゃない」
「ですが、
記録にも残していません」
「残さない判断だからな」
エルサは、
首を傾げた。
「……理解できません」
エルサは、
少し言葉を選ぶようにしてから、
もう一つ、問いを重ねた。
「……失礼ですが」
テオドールは、
革から手を離し、
顔を向ける。
「なにか、
高度な技を使っているのではないですか?」
スザンヌが、
思わず吹き出す。
「は?」
「技?」
「こいつが?」
テオドールは、
苦笑する。
「ない」
即答だった。
「秘術も、
隠し道具も、
新しい材料もない」
エルサは、
首を振らない。
「ですが……」
「歩留まりが、
あまりにも安定しています」
「季節が変わり、
人が増え、
難民の方々が工程に入っても」
「捨てる革の量が、
ほとんど増えていない」
「それは……
異常です」
その言葉に、
スザンヌが腕を組む。
「そこは、
私も思ってた」
「普通は、
人が増えりゃ、
失敗も増える」
テオドールは、
少しだけ考えてから言った。
「歩留まりを、
上げようとしてないからだ」
エルサが、
瞬きをする。
「……どういう意味ですか」
「『最大まで作る』
って発想が、
そもそもない」
「崩れそうな兆しがあれば、
量を減らす」
「止める」
「捨てる前に、
作らない」
スザンヌが、
呆れたように言う。
「それで、
結果が安定するってのが、
一番おかしい」
「普通は逆だ」
テオドールは、
静かに返す。
「普通は、
結果を追う」
「俺は、
分布を見る」
エルサは、
その言葉を
何度も噛みしめる。
「……だから」
「記録を見れば見るほど、
理由が消える」
「『うまくいかなかった理由』が、
存在しない」
「失敗が、
記録される前に、
消えている……」
彼女は、
はっとして、
顔を上げた。
「だから、
ギルドの監視員は……」
「はい」
テオドールが、
続きを引き取る。
「どれだけ記録しても、
理解できない」
「彼らは、
結果から原因を探す」
「俺たちは、
原因が揃いそうな日を、
最初から避けてる」
スザンヌが、
肩をすくめる。
「そりゃあ、
邪道だって言われるわ」
「帳面が、
役に立たねえ」
エルサは、
静かに息を吐いた。
「……ですが」
「とても、
美しい考え方です」
「失敗を消すのではなく、
生まれないようにする」
その言葉に、
テオドールは何も返さなかった。
ただ、
革に手を置く。
今日も、
作らない判断は、
確かに、
この工房を支えていた。
◆◆◆
翌日の昼下がり。
谷に差す光が、
干し場の革を淡く照らしていた。
その「いつも通り」を、
破る声がした。
「――おい」
スザンヌだった。
桶を一つ抱えたまま、
工房の奥を覗き込む。
「ゲゼレ殿」
呼ばれて、
テオドールは顔を上げる。
「なんだ」
「客が来てる」
その言い方は、
いつもの様に短かった。
「監視員じゃねえ」
「商人だ」
それだけで、
十分だった。
テオドールは、
刃を布で拭き、
腰を上げる。
門の前。
谷の静けさに、
やや場違いな明るさがあった。
男が一人、
馬の手綱を軽く引きながら立っている。
年は若い。
だが、
服は良い。
実用的で、
旅慣れていて、
無駄がない。
男は、
こちらに気づくと、
にこやかに手を上げた。
「やあ!」
声が、
よく通る。
「突然で失礼する」
「私はルドヴィコ・グラデニーゴ」
軽く一礼する。
「ヴェネツィアから来た、
ただの商人だ」
スザンヌが、
半歩前に出る。
「……で?」
「何の用だ」
ルドヴィコは、
気にした様子もなく笑う。
「大丈夫!噂を聞いてね」
「『不壊の革』の話だ」
その言葉に、
周囲の空気が、
ほんのわずか動く。
ルディが、
干し場の奥から
顔を出す。
「こわれないの?」
ルドヴィコは、
少年に向かって
ウィンクする。
「壊れにくい、
が正確かな」
そして、
テオドールを見る。
「あなたが――」
「不壊の革のゲゼレ、
テオドールだろう?」
言い方が、
あまりにも軽い。
だが、
その軽さの裏に、
情報の速さがある。
「市場では、
なかなかの人気だ、
ここで生産されたものではないけどね」
「『季節に振られない革』」
「『戦場でも割れない』」
「噂は、
尾ひれが付くものだね」
テオドールは、
即座には否定しなかった。
「……それで?」
ルドヴィコは、
肩をすくめる。
「顔を見ておきたかっただけだ」
「作っているのが、
怪物か、
天才か、
それとも――」
少し間を置く。
「ただの職人か」
スザンヌが、
鼻で笑う。
「期待外れで悪かったな」
「ただの職人だ」
ルドヴィコは、
そのやり取りを楽しむように
目を細めた。
「いい」
「一番、
厄介な答えだ」
谷の風が、
一瞬だけ吹き抜ける。
革が揺れ、
光が跳ねる。
ルドヴィコは、
改めて一礼した。
「今日は、
挨拶だけにしておこう」
「だが――」
視線が、
干し場、
工房、
そして人の流れを
なぞる。
「この『いつも通り』は、
長く続かない」
「そういう匂いが、
している」
それだけ言って、
踵を返す。
スザンヌが、
背中に声を投げる。
「厄介事、
持ち込むなよ」
ルドヴィコは、
振り返らずに手を振った。
「約束はしない」
「商人だからね」
門が閉じる。
谷は、
再び静かになる。
だが――
新しい風は、
確かに、
入り込んでいた。
テオドールは、
革を見た。
今日も、
壊れていない。
それが、
また一つ、
遠くまで届いてしまった。
冬の終わりは、
思ったより、
賑やかだった。
壊れなかった。
だから、
目を付けられた。
革は揺れ、
水は流れ、
人は手を動かし続ける。
それだけのことだ。
だが、
帳面に書けない「判断」が、
この場所を支えている限り、
外の世界は、
理解できない。
見る者は増え、
泊まる者も現れた。
それでも、
作らない日は来る。
夜は静かで、
何も起きていないように見える。
だが、
静けさの中でこそ、
次の波は、
形を持ち始める。
冬は終わる。
だが、
疑念は、
ここに根を下ろしたままだ。




