第09話 - 要するに、冬とケルンとギルドの足音
冬は、静かに始まる。
音もなく凍るものがあり、
音を連れて温まるものがある。
守ってきたのは、革だけではなかった。
火でも、燃料でもない。
ただ「流れ」を止めなかっただけだ。
だが、
整いすぎた日常は、
外の世界にとっては異物になる。
いつも通り。
それが、
最も疑われる理由になる季節が来た。
あれから聖バルトロメオの谷修道院では二か月が過ぎ、
冬は、音を連れてきた。
谷を下りる風の、低い唸り。
凍りかけた水路の、かすかな軋み。
革の干し場では、
一枚一枚が、夏より重く揺れている。
だが――
工房の中は、冷えていなかった。
ビールの煮沸釜の上、
立ち上る暖気は、
天井近くで溜められ、
木板と布で組まれた導きに沿って流れていく。
修道院の回廊へ。
宿舎の壁際へ。
作業場の隅へ。
火を増やしたわけではない。
新しい燃料を買ったわけでもない。
ただ、
逃がしていた熱を、
逃がさなくしただけだった。
「……ふざけんな」
スザンヌが、
暖まった石壁に手を当てて言う。
「冬に、
指が動くぞ」
「動きますね」
テオドールは、
樋の先を確認しながら答える。
ビール工程で使い終えた温水は、
高い位置の溜め桶に集められ、
そこから、
革の洗い場へ、
自然に流れ落ちる。
落ちるだけだ。
だが、それで十分だった。
脱灰の水は、
冷えすぎず、
人の手にも優しい。
革は、
急がされず、
しかし、滞らない。
ルディが、
湯気の立つ桶のそばで言う。
「つめたくない!」
「当たり前だ」
スザンヌが鼻で笑う。
「冬に冷たい水で革触るなんざ、
罰ゲームだ」
エルサは、
回廊の端で、
帳面を閉じた。
「燃料の使用量、
先月より減っています」
「暖房を入れたのに、です」
「なるほど」
その一言に、
満足が含まれていた。
工程改善は、
もはや「新しい試み」ではなかった。
日課だった。
習慣だった。
誰も、
特別なことをしているとは思っていない。
作らない日がある。
掃除に時間を使う日がある。
流さず、溜め、使う。
それだけで、
冬は、
越えられていた。
革は安定し、
酒は腐らず、
修道院は静かに暖かい。
だからこそ――
外から見れば、
異様だった。
「……いつも通り」
その「いつも通り」が、
この冬、
市場に流れ始めていた。
革の品質が、
崩れない。
ばらつかない。
季節に振られない。
噂は、
静かに、
だが確実に、
街道を渡った。
そして――
その知らせは、
静かに届いた。
革の干し場で、
いつも通り一枚が揺れている
昼下がりだった。
門番が、
一通の封書を持って
谷へ下りてくる。
封は赤い蝋。
刻印は、
見慣れたものだった。
スザンヌが受け取り、
裏返して舌打ちする。
「……来やがったな」
ルディが顔を上げる。
「だれ?」
「ケルンだ」
それだけで、
十分だった。
スザンヌは封を切らず、
テオドールに投げる。
「読め」
テオドールは受け取り、
一目で察した。
「ないわー……」
封を開き、短く目を走らせる。
内容は簡潔だ。
最近、修道院由来の革が市場に出回っている
品質が異様に安定している
製法と管理体制について説明を求める
指定日に出頭せよ
命令形だった。
「“招待”じゃないな」
スザンヌが吐き捨てる。
「呼び出しだ」
ルディが不安そうに聞く。
「行かなきゃ、だめ?」
テオドールは封書を畳む。
「すなわち、無視は出来ない」
「ギルドは、
噂を放置しない」
スザンヌは腕を組む。
「革を褒めてるんじゃねえ」
「管理の外で、安定してるのが気に食わねえ」
ルディは干し場を見る。
「……いつも通り、作ってただけなのに」
スザンヌは、少しだけ声を落とした。
「だからだ」
「“いつも通り”が、
外から見ると一番怪しい」
テオドールは、谷を見渡す。
水は流れ、
革は揺れ、
酒は、まだ静かに育っている。
「説明しろ、って言われてもな」
スザンヌが言う。
「秘伝なんか、ねえぞ」
「ないわー」
テオドールは即答する。
「説明できるのは――」
一拍置く。
「作らない日がある、ってことだけだ」
スザンヌが鼻で笑う。
「ギルドが一番嫌う話だな」
ルディが小さく聞く。
「……怒られる?」
「怒るより、
縛りに来る」
スザンヌははっきり言った。
「囲い込みだ」
沈黙が落ちる。
革の揺れる音だけが、残る。
テオドールは、封書を机に置いた。
「行くのは、俺だ」
スザンヌが即座に返す。
「一人でか?」
「他に誰がいる」
「……ふざけんな」
スザンヌは一歩前に出る。
「ギルドは、
“個人”じゃなく“関係”を見に来る」
「修道院だ。
子どももいる」
ルディは、思わず声を出す。
「ぼくも、行く?」
スザンヌは首を振る。
「来るな」
即断だった。
「ここを離れるな」
テオドールも頷く。
「すなわち、
革は止めない」
「噂が本当かどうか、
確かめさせ続ける」
ルディは少し考え、言う。
「……だめかな?」
スザンヌは、ゆっくり首を振る。
「だめじゃねえ」
「むしろ、
ここが揺れたら負けだ」
夕方、鐘が鳴る。
谷は、いつも通りだ。
だが、
外の世界が、ここを見つけた。
それだけで、
十分に不穏だった。
◆◆◆
ケルンの城門をくぐった瞬間、
テオドールは無意識に肩をすくめた。
「……ないわー」
人の多さではない。
視線の多さだった。
その隣を歩くエルサが、小さく頷く。
「なるほど」
彼女もまた、この街が
「祈り」ではなく「規則」で動いていることを感じ取っていた。
◆◆◆
革職人ギルドの会館は、重かった。
石壁、低い天井、革の匂い。
ここは仕事場であり、裁きの場でもある。
円卓の前に立ったとき、
会頭はまず、エルサに視線を向けた。
「……修道女が同行するとは思わなかった」
それは問いではなく、確認だった。
エルサは一歩前に出て、会頭に向かって答える。
「私は、この革が
どこで作られ、
どのように使われているかを
日常として知る立場にあります」
会頭はゆっくり頷き、次にテオドールを見る。
「では、あなたが責任者か」
今度は、明確な問いだった。
テオドールは首を横に振る。
「違う」
「すなわち、
責任者という形そのものが存在しない」
円卓の周囲に座る年長の親方たちが、ざわめく。
会頭はその反応を制し、落ち着いた声で続けた。
「修道院で、
安定した革が作られている」
「市場には出ていない」
「だが、
信頼だけが動いている」
「我々は、
それを問題視している」
この説明は、
会頭がギルドを代表して述べた正式見解だった。
テオドールは頷く。
「理解は出来る」
「だが、
説明できる“技術”はない」
会頭が眉をひそめる。
「秘伝ではない、と?」
「ないわー」
即答だった。
「あるのは、
作らない判断だけだ」
年長の親方の一人が、テオドールに向かって言う。
「それでは、
管理にならない」
テオドールはその親方を見る。
「管理しないから、崩れない」
短いが、譲らない答えだった。
会頭が口を開く。
「だから、枠に入れてほしい」
「登録、監査、報告」
「罰ではない。
秩序だ」
そのとき、
エルサが静かに一歩進み出た。
「補足します」
その声に、
全員の視線がエルサへ集まる。
彼女は会頭を見て、はっきりと名乗った。
「私は
シトー会の総本山、
シトー修道院の正修道女です」
一瞬、音が消えた。
会頭の指が止まり、
年長の親方の一人が思わず息を吸う。
「……総本山?」
それは地方修道院とは、重みが違う。
エルサは続ける。
「アルマリアのエルサです」
その言葉で、
この場にいる全員が理解した。
記録が職務の者。
嘘を許されない者。
そして――残す者。
会頭は、ゆっくりと背筋を正した。
(まずい)
それは感情ではなく、
制度的な警戒だった。
ここでエルサは、
唯一、権威を示す言葉を口にする。
「念のため、お伝えします」
会頭の目を、正面から見る。
「本日のやり取りは、
事実として記録されます」
声は静かだった。
だが、それ以上の言葉は不要だった。
会頭は深く息を吐く。
「……失礼しました」
それは、
ギルドの長としてではなく、
教会の権威を理解する都市代表としての謝意だった。
エルサは、ただ頷いた。
会頭は円卓に視線を戻し、結論を述べる。
「あなた方は、
枠に入らない」
「だが、
枠を壊すつもりもない」
テオドールが、会頭に向かって答える。
「すなわち、そうだ」
「我々は、
急がない」
会頭は一瞬、目を閉じた。
選帝侯が動いている。
武装の話も現実だ。
だが――
(この修道女がいる以上、
軽率なことは出来ない)
「……今日は結論を出さない」
「だが、
見続けさせてほしい」
「修道院を。
あなた方を」
テオドールは頷く。
「見るだけなら、止めない」
会頭は、わずかに笑った。
「……それが、
あなたのやり方か」
エルサが、会頭に向かって静かに言う。
「なるほど」
「だからこそ、
私たちは旅を続けます」
会議は、署名も決裂もなく終わった。
だがそれは、
制度と倫理が正面から出会い、
互いの限界を理解した瞬間だった。
◆◆◆
会館を出て、
テオドールは大きく息を吐く。
「……ないわー」
「胃が痛い」
エルサは、ほんのわずか微笑む。
「なるほど」
「ですが」
一拍置いて、彼を見る。
「道は、閉じていません」
その言葉を、
テオドールは疑わなかった。
この話で描いているのは、
技術の衝突ではありません。
「説明できること」と
「説明を求められること」の
ズレです。
修道院側は、
ただ崩れないように作っていただけ。
ギルド側は、
崩れない理由を
制度の中に置こうとした。
どちらも間違ってはいません。
ただ、立っている場所が違う。
そして、
この場にエルサがいたことで、
議論は「力」ではなく
「記録」と「継続」に移りました。
決着はついていません。
ですが、
道が閉じなかったこと自体が、
一つの結果です。
次は、
「見続けられる側」の時間が始まります。




