第09話前日譚 - 水路の街から
静かな水面ほど、
遠くの嵐を正確に映す。
ヴェネツィアに届いたのは、
まだ名も形も持たない“兆し”だった。
「最も高貴なる共和国」——
ヴェネツィアでは、
不穏な話ほど静かに届く。
ルドヴィコ・グラデニーゴは、
書斎の窓から運河を眺めながら、手紙を二通並べていた。
一通はケルンから。
もう一通は、ライン上流の商館からだ。
どちらにも、同じ言葉は書かれていない。
だが、同じ匂いがした。
「……ああ、来たな」
彼は肩をすくめ、苦笑する。
「絶望的展開!
――と言いたいところだが」
手紙をたたみ、椅子に深く腰掛ける。
「まずは、落ち着こう。
大丈夫!」
そう言うのが、彼の癖だった。
問題は、革ではない。
値でもない。
量でもない。
「不安定な帝国は、
必ず“素材”から壊れる」
ルドヴィコは、そう理解していた。
神聖ローマ帝国は、今、揺れている。
選帝侯が動き、
護送が変わり、
関税が歪む。
武装が必要になる。
だが、急な武装ほど事故を呼ぶ。
「粗悪な革は、
剣より人を殺す」
彼は冗談めかして言うが、
目は笑っていない。
ケルンのギルドが焦る理由も、分かる。
市場に出ていない革の噂を、
わざわざ集めている理由も。
「市場に出ない革ほど、
信用が純粋だ」
修道院。
特に、シトー会。
売らない。
名乗らない。
誇らない。
「……困ったものだ」
ルドヴィコは、手紙の一文を指でなぞる。
“失敗しない革があるらしい”
「“らしい”」
そこにこそ、彼は震えを感じた。
「噂だけが先に走る。
これは、戦争の前触れだ」
彼は立ち上がり、
地図の前に立つ。
ライン川。
ケルン。
修道院の谷。
「帝国が荒れれば、
河は閉じる」
「河が閉じれば、
船は止まる」
「船が止まれば――」
両手を広げる。
「絶望的展開!」
だが、すぐに笑って付け足す。
「……いや、まだだ。
大丈夫!」
「こういう時こそ、
“誰も売らないもの”が
一番の鍵になる」
彼は机に戻り、
新しい紙を取り出した。
宛名は書かない。
だが、行き先は決まっている。
「取引を持ちかける気はない」
ペンが走る。
「欲しいのは、革じゃない」
一拍。
「行き方だ」
帝国の外へ。
不安定の中心から、
一度、距離を取るための道。
「商人はな」
ルドヴィコは独り言のように言う。
「戦争を止められない」
「だが、
不幸が増える方向だけは、
分かる」
窓の外で、水が揺れる。
「……本当に、
帝国は厄介だ」
それでも、彼は微笑んだ。
「だが、話が面白くなってきた」
「大丈夫!
まだ、詰んでない」
そう言って、
彼は手紙を封じた。
ヴェネツィアの商人は、
今日も不安を数え、
希望を運ぶ準備をしている。
商人は未来を予言しない。
ただ、最悪の流れを避ける道を探す。
まだ船は動く。
まだ河も閉じていない。
だから彼は言う。
――大丈夫、まだ詰んでない。




