第09話前日譚 - 「圧の正体」
修道院は、守られている。
強いからではない。
壊したあと、
誰も責任を持てないからだ。
地図の上で、
谷は空白のままだ。
触れた瞬間に、
音が出る場所だけが、
静かに残されている。
ケルン革職人ギルドの会議室には、
地図が広げられていた。
革ではない。
河だ。
ライン川。
支流。
関所。
会頭は、指で川をなぞった。
「……大司教が動いた」
誰も驚かない。
だが、空気が一段重くなる。
「選帝侯だぞ」
年長の親方が言う。
「誰を支持している?」
会頭は、即答しなかった。
一呼吸置いてから、名を出す。
「リヒャルト=フォン=ケルノワだ」
誰かが舌打ちした。
「……最悪だ」
書記が補足する。
「ケルン大司教は、
彼を“正統な守護者”として扱っている」
「護送、関税、
すべてが“好意的”になる」
若い親方が言う。
「それが、革と何の関係が?」
会頭は、静かに答える。
「武装だ」
沈黙。
「兵の鎧」
「鞍」
「剣帯」
「箱」
「補修」
「数ではない。
失敗しない革が要る」
年長の親方が、低く呻く。
「……だから、修道院か」
「そうだ」
会頭は頷いた。
「シトー会の革は、
市場に出ていない」
「だが、
“崩れない”という評判だけが回っている」
書記が紙をめくる。
「ヴェネツィアの商人から、
問い合わせが来ています」
「直接の取引ではありません」
「ただ――」
言葉を選ぶ。
「“供給が安定しない革に、
これ以上船を出せない”と」
誰かが息を呑む。
「……ヴェネツィアが?」
会頭は、苦々しく言った。
「連中は、嗅ぐのが早い」
「河が荒れる前に、
“信頼できる素材”を押さえに来る」
年長の親方が言う。
「だが、
シトー会は武器商人じゃない」
「売らない」
「名も出さない」
「帳簿にも載らない」
会頭は、机を強く叩いた。
「だから困っている」
声が、珍しく荒れた。
「我々は、
武装する必要がある」
「だが、
不安定な革で武装すれば、
次は我々が責任を負う」
「失敗しない革が、
どうしても要る」
沈黙。
「しかも」
会頭は続ける。
「その革は、
ギルドの外で成立している」
「名前も、
家も、
印もない」
「あるのは――」
一拍。
「止めるというやり方だけだ」
誰かが呟く。
「……そんなもので、
戦えるのか」
会頭は、はっきり言った。
「戦える」
「だから、
我々は呼んだ」
「潰すためじゃない」
「奪うためでもない」
「枠に入れなければ、
こちらが揺らぐ」
年長の親方が、苦しそうに言う。
「従わなかったら?」
会頭は、答えなかった。
代わりに、
地図の上で、修道院のある谷を指す。
「聖バルトロメオの谷修道院……あそこが、
武装と流通の外にあるうちは、
我々は動けない」
「だが、
選帝侯が動いた以上――」
声を落とす。
「時間は、向こうにある」
誰も、反論しなかった。
革は、どこにも動いていない。
だが、
革が無いと困る世界が、
すでに動き始めていた。
守られている革は、
安全なのではない。
逃げ場がない。
名を出せば教会が動き、
手を出せば河が止まる。
だから、
誰も触れない。
だが、
必要になった瞬間――
その理由は、
刃になる。




