第08話エルサ短章 - だからこそ、数字を書く祈り
声を出さない祈りがある。
帳面に向かい、
線を引き、
数字を置くこと。
それは信仰を疑う行為ではなく、
信仰を現実に下ろすための、
とても静かな仕事だ。
この短章は、
エルサが“数”と向き合いながら、
祈りの形を少しだけ変えていく記録である。
帳面に向かう時間は、祈りに似ている。
そう思うようになったのは、
いつからだっただろう。
羽根ペンの先が、羊皮紙に触れる。
墨が、線になる。
線が、数字になる。
一、二、三。
増える。
減る。
残る。
修道院では、祈りは声に出すものだ。
だが、私にとっては、
この沈黙の方が、
ずっと神に近い。
今日も、材料の記録を書く。
麦。
塩。
膠。
油。
そして――
捨てられた量。
以前は、
そこに意味を置いていなかった。
「余り」
「残り」
「仕方のない損」
そう書いて、
目を閉じていた。
知らない方が、
世界は美しいことも多い。
それは、
本当だと思う。
数字は、
美しくない。
不足を示し、
欠乏を示し、
失敗を、はっきり刻む。
だが。
知らないまま祈るより、
知った上で祈る方が、
私は、正しいと思う。
あの日、
テオドールが言った。
「払わなくて済むだけです」
それは、
あまりにも現実的で、
あまりにも静かな言葉だった。
神に奇跡を願わず、
人の手で、
減らせるものを減らす。
その姿勢は、
祈りと矛盾しない。
むしろ――
祈りに、形を与える。
私は、
帳面の端に小さく書き足す。
ビール粕。
八十から百プフント。
以前なら、
ここで線を引いて終わりだった。
だが、今は違う。
「脱灰工程へ」
そう書くと、
紙の上で、
数字が“動いた”気がした。
スザンヌは言う。
「ふざけんな、
考えすぎだ」
けれど、
彼女の手は、
誰よりも早く動く。
テオドールは、
口数が少ない。
だが、
一つの数字を見つめる時間は、
誰よりも長い。
祈りは、
声だけでは足りない。
数字を書くことも、
祈りだ。
捨てられるはずだったものに、
意味を与えること。
失われるはずだった時間を、
次につなぐこと。
それは、
神の仕事を奪うことではない。
人に与えられた役割を、
丁寧に果たすことだ。
私は、
帳面を閉じる。
静かに、
手を組む。
どうか。
この数字が、
誰かの祈りを、
軽くしますように。
そして、
この現場が、
明日も続きますように。
墨の匂いが、
まだ、指に残っている。
それは、
祈りの痕だ。
私は、
そう信じている。
数字は、救いを約束しない。
ただ、嘘をつかない。
だからこそ、
そこに祈りを重ねる意味があるのだと、
エルサは知ってしまった。
捨てられたはずのものが、
次の工程へ渡されるように。
無言の祈りもまた、
誰かの手に届く。
帳面を閉じたあとも、
墨の匂いは消えない。
それは、
彼女が選んだ祈りの形が、
確かにそこにあった証なのだ。




