第07話番外編 - だからこそ、祝杯を挙げる日
第七話の出来事が、まだ陽の高いうちに落ち着いたそのあと。
大きな変化も、劇的な事件もない。
ただ、うまくいった仕事と、同じ時間を越えた人々がいる。
これは、昼の光の下で交わされた
――ほんの一杯の話である。
麦の香りは、穏やかだった。
煮沸を終え、冷まし、発酵を待ち、
そして——何も起きなかった。
それが、成功だった。
修道院の裏手。
作業小屋の前に置かれた粗末な木の長椅子に、スザンヌとテオドールは並んで腰を下ろしている。
素焼きの杯の中で、淡い琥珀色が静かに揺れていた。
「……澄んでるな」
スザンヌは杯を傾け、職人の目で中身を確かめる。
テオドールも一口含み、ゆっくりと味を追った。
穀物の甘み、強すぎない苦み。雑味はない。
「……成功、ですね」
それだけ言って、深く息を吐く。
「派手じゃねえが、悪くない。
最初のバッチにしちゃ、上出来だ」
その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。
そこへ、静かな足音。
「……お邪魔でしょうか」
エルサだった。
手には同じ杯。ごく自然な所作で立っている。
テオドールは、思わず目を瞬いた。
「え……エルサさんも、飲むんですか?」
一瞬の沈黙。
スザンヌが眉をひそめ、エルサが首をかしげる。
「……飲みませんか?」
「え、いや、そういう意味じゃ……」
言葉を探している間に、さらに小さな足音が重なる。
「ぼ、ぼくも……いい?」
ルディが、遠慮がちに杯を差し出していた。
「ルディまで!?」
思わず声が上がる。
今度は三人同時だった。
「……?」
「なんで?」
「だめなの?」
三方向から向けられる、まっすぐな疑問。
テオドールは言葉に詰まり——
次の瞬間、記憶がつながった。
(……ああ)
中世の水。
濁った井戸、病を運ぶ川。
煮沸され、保存の利く弱いビールは、水より安全だった。
——子供でも、飲んでいた。
「……いえ」
苦笑しながら、首を振る。
「そうでした。
むしろ、飲まない方が不自然でしたね、ないわー」
ルディはぱっと表情を明るくし、ほんの一口。
「……にがい。でも……おいしい!」
その声で、場の空気がほどけた。
スザンヌが立ち上がり、杯を高く掲げる。
「よし、やっちまうか!
もう一杯だ。祝杯だ!」
「祝杯……ですか」
エルサは少し考えるように視線を落とし、
それから、わずかに杯を持ち上げた。
「……なるほど。
お祝いということなら、いただきます」
誰も声を張り上げなかった。
乾杯の言葉もない。
ただ、それぞれが、それぞれの一杯を飲んだ。
失敗しなかったこと。
無事に終わったこと。
同じ釜を見つめ、同じ時間を越えたこと。
そのすべてが、この一杯に含まれていた。
祝杯とは、必ずしも夜に挙げるものではない。
無事だったことを、すぐに確かめ合うための
ささやかな区切りだ。
同じ釜を見つめ、同じ不安を抱え、
そして昼の光の中で、同じ味を確かめた。
その記憶は、
やがて来る次の選択の中で、
静かに力を持つことになるだろう。




