第07話 - ふざけんな!―見えていなかったもの
仕事がうまく回り始めた時ほど、
人は「当たり前」を疑わなくなる。
革は仕上がり、
酒は泡立ち、
日々は問題なく流れていく――はずだった。
だが、同じ場所に、
異なる仕事があるということは、
それだけで危うさを孕んでいる。
革と酒。
水と熱。
清めと穢れ。
第七話は、
失敗から始まる。
だがそれは、
何かが壊れた話ではない。
「見えていなかったもの」が、
ようやく姿を現す話である。
革の製造が軌道に乗って、三か月が過ぎていた。
朝の工房には、もはや慌ただしさではなく、一定の律動があった。
水を替える音、木槌の乾いた反響、革を引き上げるときの湿った摩擦音。
それらが互いに邪魔をせず、重なり合っている。
ルディは、もう「見習い」という言葉を言い訳にしなくなっていた。
「はい、次これ!」
小さな体で桶を引きずり、声を張る。
動きに迷いはなく、次に何をすべきかを自分で考えているのがわかる。
テオドールは、なめしの前工程に集中していた。
塩抜き、水洗い、石灰漬けの状態確認。
数値も装置もないが、感触と匂いと時間――それらを組み合わせて、頭の中で工程を組み直していく。
(……安定してきたな)
そう思った、その時だった。
「おい、ゲゼレ殿よ」
低く、遠慮のない声が工房の奥から飛んできた。
振り向くと、スザンヌが腕を組んで立っている。
赤毛は少し乱れ、表情は険しい。
「ツラを貸せ。今すぐだ」
「え、今?」
「今だ。革は逃げねえが、アレはもう逃げてる」
言い切りだった。
◆◆◆
ビール製造の現場は、いつもより静かだった。
通常なら、発酵桶の周りには微かな泡音と、甘く酸味の混じった匂いが漂っている。
だが、この日は違った。
鼻を突いたのは、重く、鈍い異臭だった。
「……全部か?」
テオドールの問いに、スザンヌは短く頷く。
「一バッチ、丸ごとだ」
発酵桶の中を覗いた瞬間、
テオドールの視界に【解析】が重なった。
――ひどい。
液面は不自然に濁り、泡は立たず、
酸化と腐敗が同時に進行したような、矛盾した状態。
[解析対象:麦酒仕込み液]
発酵進行:停止
異常微生物:複数
揮発性酸:高
再生可能性:極低
(……失敗、というより破壊だ)
スザンヌが舌打ちする。
「原因が掴めねえ。
麦も水も、昨日と同じだ。
仕込みも、いつも通りだ」
「いつ“おかしい”と気づいた?」
「今朝だ。
泡が立たねえ。匂いも変だ」
その背後で、ルディがこそこそと覗き込んでいた。
「うわ……くさい……」
「こら、触るな!」
スザンヌが怒鳴ると、ルディは慌てて手を引っ込める。
「ないわー……なの?」
「今回は、だめだ」
スザンヌははっきり言った。
その声には、悔しさよりも困惑が滲んでいる。
テオドールは一度、目を閉じた。
「……最初から、全部教えてください」
「全部?」
「原材料から。
仕込み。
途中の管理。
終わりまで」
スザンヌは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「いいだろ。
じゃあ――」
彼女は指を折りながら、語り始めた。
麦の種類。
挽き方。
水の汲み場。
煮沸の時間。
冷まし方。
発酵桶の洗い方。
置き場所。
蓋の扱い。
一つ一つは、どれも「いつも通り」だった。
ルディは話の途中で、
桶の裏を覗いたり、床を嗅いだり、
落ち着きなく動き回っている。
「ルディ、何か変なところは?」
「えっと……ここ、ぬるぬるする」
「そこは昨日もだ」
「でも、におい、ちがう」
その一言に、テオドールは目を開けた。
スザンヌの説明が、最後まで終わった時。
テオドールの中で、
一つの要素だけが、他と噛み合っていないことに気づいていた。
(……原因は、工程じゃない)
(工程の“外”だ)
だが、それを口に出す前に、
テオドールはもう一度、発酵桶を見つめた。
――結論は、まだ言わない。
ここで間違えれば、
次は革の現場にも波及する。
「……少し、考える時間をください」
スザンヌは腕を組んだまま、短く言った。
「頼むぜ、ゲゼレ殿」
泡の立たない液体が、
静かに、しかし確実に腐っていく音がした。
◆◆◆
発酵桶の前で、テオドールは黙り込んでいた。
泡は立たない。
液面は沈み、匂いは重い。
「……ふざけんな」
スザンヌが低く吐き捨てる。
「ここまで死んだ仕込み、久しぶりだぞ」
テオドールは目を閉じ、頭の中で工程を逆に辿った。
(麦は悪くない)
(水も、煮込みも、間違っていない)
――ならば、育つはずのものが育たなかった。
「スザンヌさん」
「なんだよ、ゲゼレ殿」
「発酵桶の置き場所、変えましたね」
「……あ?」
一瞬、鋭く睨み返す。
「変えたってほどじゃねえ。
ちょっと川側に寄せただけだ」
「……」
「革の桶が増えたからな。
やっちまうか!って思ってよ」
テオドールは、静かに言った。
「それが、原因です」
「はぁ!?
ふざけんな!」
「川風はいい!
涼しい!
酒に向いてるだろ!」
テオドールは、地面にしゃがみ込み、
桶の下の土を指でなぞった。
「酒は、“冷やす”と育ちません」
「……は?」
「ビールは、煮て終わりじゃない」
テオドールは、ゆっくり言葉を選んだ。
「煮た麦の汁が、
自分で動き出す時間が要るんです」
「動く……?」
「目には見えませんが、
中で“働くもの”が起きて、
甘みを、酒に変えていく」
スザンヌは腕を組んだまま聞いている。
「その働くものは――」
テオドールは続けた。
「寒すぎると眠る」
「湿りすぎると、腐りを呼ぶ」
「……くそ」
スザンヌが低く唸る。
「朝方、この辺は冷えます」
「革の水洗いの湿りも、残る」
「そこで、酒が弱ったところに――」
テオドールは、桶の裏を指差した。
「外から入り込んだ穢れが来た」
その時。
「ねえ!」
ルディが桶の裏を覗き込んで声を上げた。
「ここ、白いのついてる!」
「触るなって言ってるだろ!」
「でも昨日なかった!」
二人が覗き込む。
木の継ぎ目に、薄い白い膜。
テオドールの視界に、【解析】が重なる。
[付着物:腐敗を招く付着物・石灰の残り]
[状態:冷えと湿りにより増殖]
(ないわー……決まりだ)
「すなわち、革の工程で出た穢れです」
「……やっちまったな」
スザンヌが額を押さえる。
「酒が弱ったところに、
あんなもん入ったら――」
「負けます」
「ふざけんな……」
しばらく沈黙。
やがて、テオドールが口を開いた。
「……今回の件ですが」
「革の工程の掃除が、
十分ではありませんでした」
「私の管理不足です」
「迷惑をかけました。すみません」
一拍。
「ふざけんな!!」
スザンヌが声を荒げた。
「なんでお前が頭下げるんだ!」
「桶を動かしたのはアタシだろ!」
「やっちまったのはアタシだ!」
「なめし場が汚れるのは当たり前だ!
綺麗だったら逆に気味悪いわ!」
「……」
「それにだ!」
さらに畳みかける。
「こうして原因が分かっただろ!」
「だったら、それでいい!」
「謝られると調子狂うんだよ!」
「やっちまうか!って言えねえじゃねえか!」
「言ってます」
スザンヌの怒涛に言い返す。
「言ってねえ!」
ルディが恐る恐る聞く。
「じゃあ……次は?」
スザンヌが、にやりと笑った。
「次は、ちゃんと育てる」
「冷やさねえ」
「濡らしすぎねえ」
「余計なもん、近づけねえ」
「……やっちまうか!」
テオドールは指を立てた。
「発酵桶を元の乾いた場所に戻す」
「洗いは煮た湯で徹底する」
「革と酒の作業は、日を分ける」
「……ふざけんな」
だが、その声には納得が混じっていた。
「筋は通ってる」
ルディがぱっと顔を明るくする。
「泡、もこもこ?」
「ああ!」
「できるもん!」
スザンヌは豪快に笑った。
「次、泡が立ったらだな」
「ゲゼレ殿よ、一杯、付き合え」
「ふざけんな、断る理由がねえだろ!」
泡の立たない液体は戻らない。
だが、その失敗は――
革と酒が同じ場所にある怖さと、
分けて考える知恵を、
はっきり刻み込んだ。
スザンヌが桶を叩く。
「よし」
「次は――」
「やっちまうか!」
◆◆◆
桶は空になり、
腐った仕込みは土に還された。
その後に残ったのは、
掃除だった。
床にこぼれた麦のかけら。
桶の縁に残る泡の痕。
煮沸に使った釜の煤。
スザンヌは袖をまくり、
桶に湯を張り始める。
「ほら、ぼさっとすんな、ゲゼレ殿」
「やっちまうか!」
勢いよく湯が注がれる。
白い湯気が立ちのぼった。
テオドールは、その量を見て、
ふと手を止めた。
(……多いな)
「スザンヌさん」
「なんだよ…ってか『さん付け』はやめろ、そういわれると背中がムズムズすんだよ!」
「分かりましたスザンヌ。この湯は、掃除が終わったら?」
「そのまま外に流す」
即答だった。
「ふざけんな、まさか飲むのか?」
「いえ、そうではなくて」
テオドールは、桶から溢れた湯が
溝へ流れていくのを見つめる。
(煮た湯だ)
(まだ、温かい)
「……他にも、
そのまま捨てているものはありますか」
スザンヌは、少し考えた。
「麦の殻」
「ビール粕」
「ホップの残り」
「煮た後の湯」
「あと、乾燥炉の熱だな」
「熱?」
「ああ」
スザンヌは、隣の部屋を親指で示す。
「麦芽を乾かす炉があるだろ」
「火を落としても、
隣の部屋がしばらく暖けえ」
「……ただ逃がしてるだけだ」
テオドールの頭の中で、
何かが音を立てて動き出した。
(熱)
(湯)
(糖の残り)
(穀のかす)
掃除の手は止まらない。
だが、思考は加速していく。
(糖化の湯は、ぬるいまま捨てている)
(あれは、革の脱灰に使える温度だ)
(ビール粕――麦の殻)
(柔らかい、まだ甘みが残る)
(あれを水に浸せば、
革を痛めずに……)
「おい、ゲゼレ殿」
スザンヌが眉をひそめる。
「また変な顔してるぞ」
「……いえ」
だが、止まらない。
(酒を“育てる”力があるなら)
(革を“静かに戻す”力にも、
似たものがあるはずだ)
(麦が持っている働き)
(酒の中で目覚める力)
(それを――
革に使えないか?)
湯気の向こうで、
炉の残り熱が、
じんわりと部屋を暖めている。
「なあ」
スザンヌが、桶を洗いながら言う。
「なんか思いついたなら、
顔に出すな」
「落ち着かねえ」
テオドールは、はっとして息を吐いた。
「……すみません」
「ふざけんな」
「謝るほどじゃねえ」
「ただな」
スザンヌは、にやりと笑う。
「そういう顔の時、
だいたいろくでもねえこと考えてる」
「やっちまうか?」
「……まだ、考えているだけです」
「ほう?」
湯が流れ、
床が少しずつ乾いていく。
捨てられていくもの。
逃げていく熱。
それらが、
ただの“残り”ではなく、
次の工程の始まりに見え始めていた。
(捨てているから、見えない)
(使うと決めた瞬間に、
意味が生まれる)
テオドールは、
濡れた手を拭きながら思う。
(革も、酒も)
(同じ場所にある理由は、
まだ、終わっていない)
スザンヌが、桶を伏せた。
「よし、掃除終わりだ」
「やっちまったな」
その言葉に、
テオドールは静かに頷いた。
だが、心の中では――
別の仕込みが、
すでに始まっていた。
この話では、
「失敗」を誰の責任にもしていない。
スザンヌは間違えたが、
怠けてはいない。
テオドールは気づいたが、
最初から分かっていたわけではない。
そして、ルディは何も知らないまま、
一番大事なところを見ていた。
革も酒も、
単独では成り立たない。
水があり、
熱があり、
捨てられるはずだったものがあり、
それらが偶然、同じ場所に集まっている。
第七話で描かれたのは、
技術の進歩ではない。
視点の変化だ。
捨てていたものに、
意味が宿り始めた瞬間。
それはまだ、
「やっちまうか」と言うには早い。
だが、
次の一歩を踏み出すには、
十分すぎる予感だった。




