第02話 - 三日間というのは、だいたい長い。すなわち。
革は、
命令を聞かない。
力をかければ、
抵抗する。
急げば、
黙る。
だから職人は、
手を動かす前に、
一度だけ止まる。
待つことは、
怠けではない。
判断だ。
この話は、
失敗しない理由を
説明する話ではない。
失敗しないために、
何をしなかったかの話だ。
三日という時間は、奇妙だ。
短いようで、長い。
長いようで、逃げ場がない。
すなわち、
結果が出るには十分で、
言い訳を考えるには短すぎる。
俺が桶を日陰に移したその日から、
工房の空気は、ほんの少しだけ変わった。
誰も何も言わない。
だが、誰も見ていないふりもしない。
視線というのは、重たい。
革より重たい。
「……」
作業をしながら、俺は何度も桶を覗いた。
温度。
泡の出方。
匂い。
数字はない。
温度計も、pH計もない。
ないわー。
普通、ここで詰む。
だが、【解析】は相変わらず、淡々としていた。
温度:安定
発酵状態:良好
腐敗リスク:低
(……静かすぎる)
反応が、暴れていない。
それが逆に不安だった。
反応というのは、だいたい主張が激しい。
泡を立て、匂いを変え、色を変える。
だがこの桶は、
必要以上のことを、何もしない。
すなわち、
条件が合っている。
――理屈では、そうだ。
理屈では、そうなのだが。
夜、藁の上で目を閉じると、
別の“白”が浮かんできた。
割れるガラス。
裏返る空気。
遠くなる音。
ないわー。
目を開けると、天井が低い。
梁がある。
現実だ。
(……戻れないんだな)
戻る理由も、
戻る場所も、
もうない。
すなわち、
前に進むしかない。
二日目。
工房に入ると、匂いが違った。
劇的ではない。
だが、昨日より丸い。
発酵臭が角を落とし、
脂の匂いが引いている。
(……お)
誰より先に気づいたのは、俺だった。
だが、気づいたのは俺だけじゃない。
「……今日は、臭いが軽いな」
誰かが、ぼそっと言った。
空気が、ほんの一瞬だけ止まる。
グスタフ親方は何も言わない。
だが、桶を見る回数が増えている。
職人というのは、
口より先に、指と鼻が動く。
すなわち、
もう結果は、半分出ている。
昼。
革を引き上げる。
水を切る。
触る。
(……柔らかい)
まだ途中だ。
だが、すでに違う。
繊維が、素直だ。
抵抗がない。
ないわー。
これ、
本当に俺がやったのか?
三日目。
乾燥棚に並べられた革を前に、
工房の全員が黙っていた。
乾いた革は、嘘をつかない。
これは、どの世界でも同じだ。
触った瞬間、わかる。
割れない。
硬すぎない。
匂いが残らない。
グスタフが、革を持ち上げる。
指で撫で、
軽く曲げ、
音を聞く。
「……」
長い沈黙。
心臓が、うるさい。
ないわー。
これで失敗扱いされたら、
精神的にきつい。
「……悪くない」
短い言葉。
だが、工房がざわついた。
「悪くない」
それは、この世界では
かなりの賛辞だ。
グスタフは俺を見た。
「テオドール」
「はい」
「……もう一度、最初からやれ」
一瞬、意味がわからなかった。
(え、処分?)
ないわー。
「今度は、
お前のやり方でだ」
……ああ。
すなわち、
認められた。
完全ではない。
だが、拒絶ではない。
それは、
見習いにとっては、破格だ。
桶が増える。
工程が増える。
視線が、集まる。
怖い。
正直、かなり怖い。
だが、
怖いということは――
すなわち、
期待されている。
俺は深く息を吸った。
獣脂と革と発酵の匂い。
この世界の空気。
ないわー、と思う自分もいる。
だが同時に、
少しだけ、胸が熱かった。
化学エンジニアだった頃、
数字の向こうにしか見えなかった“結果”が、
今は、手の中にある。
革は、正直だ。
条件を守れば、応えてくれる。
すなわち、
世界も、案外そうなのかもしれない。
俺は革を手に取り、
次の桶を見た。
――次は、もっと良くできる。
三日間は、確かに長い。
だが。
すなわち、
始まりとしては、ちょうどいい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第二話は、
事件らしい事件は起きていません。
誰かが怒鳴ることも、
派手に成功することもありません。
ただ、
「止めた」だけの話です。
テオドールがやっていることは、
特別なことではありません。
革に触らず、
水を替え、
時間を置いただけです。
でも、
それを「やらない」判断をするのは、
見習いには少し勇気がいります。
仕事というのは、
たいてい
「何をしたか」よりも、
「何をしなかったか」で
結果が変わります。
革は正直で、
急かされると、
だいたい壊れます。
次の話から、
この「失敗しないやり方」が、
少しずつ
周囲から見られるようになります。
評価も、
疑いも、
同時に始まります。
合う人には、
まだ静かすぎる話かもしれません。
でも、
この速度でしか書けない話もあります。
もしよければ、
もう少しだけ
付き合ってください。
革は、
まだ
黙ったままです。




