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「革」命転生 ――転生した化学エンジニア、13世紀の皮革産業を「革」新する  作者: 柄臼田廬翁
作らないという技――聖バルトロメオの谷修道院編
19/31

第05話 - できるもん!―革は、まだ沈んでいる

仕事は、

始める前から始まっている。


道具が揃っているか。

水は澄んでいるか。

床は乾いているか。

匂いは、いつもと同じか。


だが、

子どもにとってそれは

「仕事」には見えない。


触れない。

作らない。

進まない。


だから口をついて出る。


「できるもん!」


第五話で描かれるのは、

その言葉がまだ軽かった頃の話だ。


革は、まだ沈んでいる。

作業は、まだ始まらない。


けれど、

何もしていないわけではない。

テオドールは、作業場の端に立ったまま、しばらく何も言わなかった。


目の前には、

ピットなめしの槽。

沈められた革。

ゆっくりと動く水。


――現代なら。


思考が、無意識に先へ跳ぶ。


(クロムなめしが主流だ)

(薬品、短時間、均一)

(手作業は最小限)

(量を作るには最適)


(だが――)


(丈夫さ)

(経年)

(美しさ)


(植物タンニンなめしの方が、上だ)


オーク。

栗。

ミモザ。

(いや、ミモザはこの時代のドイツには無いか...)


時間がかかる。

作業は多い。

効率は悪い。


(でも、革は裏切らない)


テオドールは、その考えを口にしなかった。


ここでそれを語っても、

意味は伝わらない。


下手をすれば、

異端だと思われる。


だから、彼は現実に戻る。


目の前の槽。

目の前の革。

目の前の人間。


「……すなわち」


小さく呟いてから、

今度は声に出して言った。


「ここは、

 丁寧だな」


スザンヌが腕を組んだまま、こちらを見る。


「雑にはやってない」


それだけで、

彼女には十分だった。


テオドールは、これまで見ていた水から、

視線を下げた。


槽そのものを見る。


深さ。

層。

沈め方。


「……なるほど」


ピットなめしの槽は、

思った以上に考えられている。


上と下で、

条件が違う。


沈める位置で、

革の運命が変わる。


「多層構造だ」


テオドールは納得して腕を組む。

「悪くない」


スザンヌが、短く頷く。


だが、

同時に問題も見える。


数百枚の革が、

沈められたままになっている。


ルディが監視してきたが、

すでに駄目になりかけているものもある。


「選別が必要だ」


ルディが、少し身をすくめた。


「……ぼく、見てたよ?」


責める調子ではなかった。


「知ってる」


「でも、

 量が多すぎる」


テオドールは目を閉じ、

【解析】を発動させる。


【解析:ピット槽】

・タンニン濃度:不均一

・上層:低

・中層:適正

・下層:過剰

・オーク樹皮:過多

・栗:不足


「……ないわー」


小さく呟く。


「濃度にムラがある」


スザンヌが眉を上げる。


「ムラ?」


テオドールは、地面に指で簡単な図を描いた。


「ここは強い」


「ここは弱い」


「同じ槽でも、

 革ごとに条件が違う」


ルディが身を乗り出す。


「じゃあ、だめ?」


「全部じゃない」


「すなわち」


「場所が悪い革が、悪くなる」


スザンヌは、腕を組み直す。


「オークが多すぎるな」


「そう」


「栗の配分も、

 最適じゃない」


「結果、

 進みすぎる革と、

 進まない革が出る」


ルディは、必死に聞いている。


「だから」


テオドールは、彼を見る。


「今からやることは二つだ」


「まず」


「徹底的に掃除」


ルディの目が輝く。


「え、作業は?」


「後」


「今は掃除」


「全部」


「床」


「槽の縁」


「道具」


「水路」


「……ないわーってくらい」


ルディは一瞬、口を尖らせた。


「はやく作業したいのに……」


だが、スザンヌが言う。


「やれ」


短い一言。


「……できるもん!」


ルディは動き出した。


同時に、テオドールは槽に向かった。


革を一枚ずつ引き上げる。


匂い。

手触り。

色。


沈め直すもの。

位置を変えるもの。

廃棄するもの。


幸運だった。


「……廃棄は、少ない」


数は、思ったほど悪くない。


ルディは、掃除をしながら、何度もこちらを見る。


テオドールは、急かさない。

説明しない。

同じ動作を、淡々と繰り返す。


それが、数日続いた。


最初、ルディは思っていた。


はやく作業がしたい。

なめしたい。

つくりたい。


だが、三日目。


ここまで掃除をさせられたことは、ない。


五日目。


この職人、

 ちょっと違う。


作業場は、見違えるほどきれいになった。


水の流れが、

目で分かる。


匂いが、

変わった。


ルディは、箒を止めて、

ふと呟いた。


「……できるもん、

 だけじゃないかな?」


誰に言うでもなく。


テオドールは、その声を聞いたが、

何も言わなかった。


ただ、革を選別しながら、

静かに頷いた。


革は、まだ沈んでいる。


だが、

作業場そのものは、

すでに整え直されていた。


◆◆◆


テオドールは、工房の隅に積まれていた古い革の束から、最後の一枚を持ち上げた。


乾ききり、縁が割れ、革としての粘りを完全に失っている。


「……これは、もう使えない」


そう言って、脇へと分ける。


この数日は、仕掛品の処理に費やされた。

幸運な事に7割程の革はまだ十分に使える状態だった。

(植物タンニンなめしの抗菌作用はなかなかすごいな)

テオドールは頭の中で亡くなった先代の職人に感謝した。


「これで、古い分は終わりだな」


テオドールが立ち上がると、スザンヌが腕を組んで頷いた。


「今は、仕掛品は無い。

でもな、桶も道具も揃ってる。

いつでも始められる状態だ」


それが意味するところを、テオドールはすぐに理解した。


――失敗の言い訳は、もうない。


「じゃあ、次は……」


テオドールは視線を工房の奥、前工程の作業台へと向けた。


「前を見せてください」


スザンヌは、待っていたとばかりに口を開く。


「順に説明するぞ」


彼女は指で空中に区切りを描く。


「まず、塩付けされたヤギ革。

これは修道院じゃ作らない。農家から買ってる」


ヤギ革は軽く、加工が早い。

修道院の装丁や小物には欠かせない素材だ。


「で、塩抜きと石灰漬けは修道女たちがやってる」


スザンヌは淡々と続ける。


「水に戻して、石灰に浸す。

ここまでは、特に問題は出てない」


その先で、彼女は親方の使っていた作業台を一瞥した。


「脱毛、脱灰、臭いを抜く工程

ここは全部、親方の仕事だった」


親方は、工程の中核を一手に握っていた。

経験と勘で、皮の状態を見極める職人だった。


「……で」


スザンヌは、視線をルディへ向ける。


「なめし前の水洗い。

これは、ほぼ――この坊主だ」


ルディが、びくっと肩をすくめる。


「ぼ、ぼく……?」


「そうだ。

井戸水で、皮を洗う。

血と汚れを落とす、地味な仕事」


誰も評価しない工程。

だが、すべての反応の入口でもある。


テオドールは、そこで一枚の皮を手に取った。


表面を撫で、匂いを嗅ぐ。


「……脂が、残ってる」


ルディは慌てて言う。


「ちゃんと、洗ってるよ……!」


嘘ではない。

だが、足りない。


スザンヌが補足する。


「水が冷たい。

この季節の井戸水じゃ、脂は落ちにくい」


彼女は肩をすくめた。


「坊主のせいじゃねぇ。

やり方を、誰も教えてなかっただけだ」


テオドールは、静かに頷いた。


親方が生きていた頃、

前工程は「結果が出ないから」軽視されていた。


後で帳尻を合わせる――

それが、この工房のやり方だった。


「……なるほど」


テオドールは皮を戻す。


「仕掛品が無いのは、不幸じゃない」


スザンヌが眉を上げる。


「ほう」


「最初から、整え直せる」


前工程から、順番に。

誰の仕事が、どこに繋がっているのかを――

はっきりさせた上で。


ルディが、恐る恐る聞く。


「……できる?」


テオドールは、迷いなく答えた。


「できる」


今度は、根拠があった。

桶は空。

石灰槽も、脱灰の桶も使われていない。

仕掛品はない。


それは、途切れた歴史の証であり、

同時に――やり直せる余地でもあった。


テオドールは作業台に並ぶ道具へ目を向けた。


刃こぼれしたナイフ。

木肌に古い脂が染みついたヘラ。

内側に白い粉を残した桶。


どれも、使おうと思えば使える。

だが、今すぐ始めるべき状態ではない。


「……このままじゃ、駄目だ」


そう言ったのは、テオドールだった。


スザンヌは道具を一瞥し、肩をすくめる。


「詳しいことは分からんが、

前の作業の名残が残ってるのは分かる」


彼女は革を触らない。

評価もしない。


ただ、現場の空気が良くないことだけを感じ取っている。


その時だった。


工房の外から、慌てた足音が近づく。


「スザンヌ!」


修道女が戸口に立ち、声を張る。


「醸造棟です。

泡が……沈みすぎてます」


スザンヌは短く舌打ちした。


「……ふざけんな。

今、来たか」


彼女は一瞬、天井を見上げ、すぐに判断する。


「悪いが、呼ばれた」


スザンヌはテオドールを見る。


「革のことは、あんたに任せる。

私は、泡を見てくる」


「お願いします」


テオドールは即座に答えた。


スザンヌはそれ以上、革に口を出さない。

ただ一言だけ残す。


「無理はすんな。

始めるなら、ちゃんと始めろ」


それだけ言って、工房を出ていった。


残されたのは、テオドールとルディ。


しばらく、沈黙。


挿絵(By みてみん)


テオドールは改めて、工房全体を見渡した。


「ルディ」


「……なに?」


「もうすぐ、始められる」


ルディの表情が、少しだけ明るくなる。


「ほんと?」


「ああ。ただし――」


テオドールは、作業台の道具を指差した。


「今は触るな」


ルディは戸惑う。


「え……?」


「始める前にやることがある」


テオドールはナイフを手に取り、刃を光にかざした。


「道具の掃除だ。

徹底的に」


彼は続ける。


「前の汚れ、前の脂、前の石灰。

全部、落とす」


それは、雑用ではない。

工程の一部だった。


「これから始める革は、

今までの失敗とは関係ない状態で迎えたい」


ルディは、道具を見つめる。


「……ぼくが?」


「そうだ」


テオドールは、はっきりと言った。


「お前がやる。

水洗いを任されてたなら、道具を清めるのもできる」


ルディは一瞬、考え、そして小さく拳を握る。


「……できるもん」


テオドールは、微笑んだ。


「それでいい」


始める前に、整える。

この工房では、誰も教えなかった順序。


だが――

順序を守れば、革は応えてくれる。

第五話で、

革はほとんど変わらない。


なめしは進まない。

新しい皮も入らない。


だが、

作業場は確実に変わった。


床が見える。

水が読める。

匂いが分かる。


そして何より、

ルディの中で

「できるもん!」の意味が揺らぎ始める。


それは失望ではない。

否定でもない。


違和感だ。


ここまで掃除をさせられたことはない。

こんなに始まらない仕事も、知らない。


けれど、

この職人は

「何もしない」ことを

無駄にしていない。


第五話は、

技術の話ではない。


順序の話だ。


できるからやるのではない。

やらない理由が、

一つずつ消えていく。


「できるもん!」という言葉が、

まだ軽いからこそ、

この章は必要だった。


次にそれが

口から出るとき、

きっと意味は違っている。

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