第04話 - だめかな?と言える場所
修道院は静かな場所だ。
少なくとも、外から見ればそう思える。
だが一歩中に入れば、
そこには別の音がある。
水の流れる音。
桶の触れ合う音。
木と革が軋む音。
そして、
人が仕事を始める前に発する、
短い言葉。
第四章で描かれるのは、
祈りの場としての修道院ではない。
働く場としての修道院だ。
そこでは、
声が高い者が強いわけでも、
言葉が多い者が正しいわけでもない。
腕を組み、、
ただ立っているだけで
場を支配する者がいる。
そしてその足元で、
一人の子どもが
「できるもん!」と声を上げる。
それだけで、
工房は動き始める。
朝の鐘は、低く、短かった。
谷の底を流れる水に押し戻されるように、音はすぐにほどけていく。
テオドールはその余韻で目を覚ました。
宿舎の外へ出ると、川はすでに動いていた。
滝から落ちた水が泡立ち、下流へと静かに引き延ばされている。
「朝はね、水!」
ルディが桶を抱えて立っていた。
「鐘が鳴ったら、まず水。
それから、だめな水と、いい水を分ける!」
「……だめな水?」
「うん。もう仕事した水!」
説明は大雑把だが、言い切りだった。
テオドールは川沿いに並ぶ建物を見る。
洗い場、なめし槽、干し場。
配置は整っている。だが――
動いていない。
革は見当たらず、槽の水面は静まり返っていた。
「……止まってるな」
ルディは一瞬、言葉に詰まった。
「……うん」
視線を落とし、小さく続ける。
「前の人がね、いなくなったから」
作業場へ向かう途中、足音が近づいてきた。
「朝から覗き見か?」
赤毛の女が、桶を一つ肩に担いで現れた。
「スザンヌだ」
「私は酒だ。
水と麦と、あと発酵」
そう言って、川を指す。
「革のことは、正直よく分からん。
匂いが変わるかどうかくらいだ」
はっきり言い切る。
「だから今までは、あの人に任せてた」
スザンヌは、空になったなめし槽を見る。
「親方だ。年寄りだったが、腕は確かだった」
一拍、間を置いてから、続ける。
「……数か月前に、死んだ」
谷の音が、わずかに大きくなったように感じられた。
「それから?」
テオドールが訊く。
「革は作れてねえ」
スザンヌは肩をすくめた。
「中途半端に触って、全部駄目にするよりはな。
酒と違って、革は取り返しがつかねえ」
彼女の視線が、ルディに落ちる。
「この子は、あの人の見習いだった」
ルディは、胸の前で手を組んだ。
「……見てた」
小さな声だった。
「全部、見てた。
でも……」
言葉が途切れる。
「手は、止められてた」
テオドールは、何も言わずに作業場の全体を見る。
水の流れ。
槽の配置。
干し場の向き。
——これは、途中で止まった場所だ。
「だから、貴様は呼ばれたんだろうな!誰にとは言わねぇが!」
天を指さし豪快に笑いながらスザンヌはテオドールを見る。
「革を作れってんじゃねえ。
まず、見てほしい」
「……いいだろう」
テオドールは頷いた。
修道院長が、少し離れた場所から近づいてくる。
「この谷は」
静かな声だった。
「祈りのためにある。
だが祈りは、道具を消費する」
エルサが一歩前に出る。
「私は、それを使います」
修道院長は頷く。
「だから、良い革が要る。
だが、売るためではない」
視線がテオドールに向く。
「ここで作られ、ここで使われ、
ここで終わる革だ」
テオドールは答えた。
「それでいい」
スザンヌが、ふっと息を吐いた。
「聞いたか、ルディ」
「うん!」
「今日はな、触るな」
ルディは勢いよく頷く。
「見るだけ!」
テオドールは、その言葉に少しだけ口角を上げた。
——まずは、見る。
ここは、
革を作る場所ではなく、
革が作られなくなった理由を抱えた場所だ。
川は流れ続けている。
水も、配置も、残っている。
あとは——
もう一度、始められるかどうかだけだった
◆◆◆
作業場の中は、思ったより静かだった。
水の流れる音はある。
だが、人の手が入る気配がない。
槽の縁には苔がつき始め、木枠の一部は乾きすぎている。
テオドールは、革に触れずに歩いた。
目だけで、距離と配置を測る。
「……親方は、どこまでやっていた?」
スザンヌは少し考え、首を振る。
「私は酒だ。
革の工程は、最初と最後しか見てねえ」
それから、正直そうに続けた。
「ただな、失敗したときの匂いは分かる。
酒も革も、腐る前に音が変わる」
テオドールは小さく頷いた。
「それで十分だ」
スザンヌは眉を上げる。
「そうか?」
「現場を見る人間が、全部分かっている必要はない」
テオドールは、なめし槽の縁にしゃがみ込んだ。
「止め時を分かる人間がいればいい」
スザンヌは、ふっと鼻で笑った。
「……前の親方も、似たこと言ってた」
ルディは、その会話を少し離れたところで聞いていた。
声を出さず、だが一言も逃さない顔で。
修道院長が、改めてテオドールに向き直る。
「正式に頼みたい」
声は低く、しかし迷いがなかった。
「この谷で、革を再び作れるようにしてほしい」
テオドールは即答しなかった。
一度、作業場全体を見渡す。
水はある。
配置も残っている。
記憶を持った子どももいる。
——条件は、揃っている。
「すぐには作らない」
そう言って、彼は立ち上がった。
スザンヌが口を挟む。
「酒も同じだ。
急いだやつから、腐る」
テオドールは彼女を見る。
「なら、分かるだろう」
「……分かる」
修道院長は、静かに頷いた。
「では、まず何を?」
テオドールは、ルディを見る。
少年は、思わず背筋を伸ばした。
「この子に、話をさせてほしい」
ルディは目を見開いた。
「ぼ、ぼく?」
「覚えていることを、順番にだ」
テオドールは言った。
「正しいかどうかは、俺が決める」
一瞬、沈黙が落ちる。
ルディは唇を噛み、それから小さく頷いた。
「……水から」
声は震えていたが、はっきりしていた。
「朝は、水。
まだ冷たい水」
スザンヌが目を細める。
「親方も、そう言ってたな」
ルディは続ける。
「お昼の水は、もうだめ。
触ると、あとで匂いが変わる」
テオドールは、何も言わずに聞いている。
「革は……」
ルディは一度、言葉を探した。
「革は、しゃべらない。
でも、親方は、音を聞いてた」
その瞬間、テオドールの目がわずかに動いた。
「……続けろ」
「水の音。
革が、ちゃんと沈んでる音」
説明は稚拙だったが、的確だった。
テオドールは、修道院長を見る。
「この子は、途中まで行っている」
「だが、止まっている」
修道院長が言う。
「ええ」
テオドールは頷いた。
「だから、今日は作らない」
スザンヌが腕を組む。
「じゃあ、今日は何する?」
テオドールは、作業場の床を見る。
「掃除だ」
即答だった。
「全部だ。
水路、槽、干し場」
ルディがぱっと顔を上げる。
「できるもん!」
「できるだろうな」
テオドールは、初めて少年を正面から見た。
「これは、革を作る前の仕事だ」
修道院長は、一歩下がった。
「では、ここからは任せる」
それは、許可だった。
谷に風が通り、水面が揺れた。
革は、まだ一枚も作られていない。
だが、作られなくなっていた理由は、すでにほどけ始めている。
テオドールは確信していた。
この修道院は、
革を失った場所ではない。
革を待っていた場所だ
第四章で明らかになるのは、
誰が主役か、ではない。
すでに回っている現場がある
という事実だ。
スザンヌは語らない。
説明もしない。
彼女が示すのは、
始める合図と、
止める怒声だけだ。
それで十分だった。
ルディはまだ、
仕事の意味を言葉にできない。
だが、
場の空気を疑わない。
自信が先に立ち、
体がそれについていく。
それは未熟さであり、
同時に強さでもある。
テオドールとエルサは、
この章では外側にいる。
第四章は、
彼らが何かを変える話ではない。
変わる必要のない秩序に、
出会ってしまった話だ。
ここから先、
判断が交わされ、
技が重なり、
やがて別れが訪れる。
だがその前に、
この工房が
すでに「生きている」ことを
記しておかなければならない。
第四章は、
その確認の章である。




