第12話 - 名を刻むということ。要するに。
完成とは、
終わることではない。
それは、
他人の手に渡る準備が整った
というだけの話だ。
祈りも、
仕事も、
誰かのもとに置かれて
初めて役目を持つ。
この話は、
評価の話ではない。
引き受けた結果が、
引き取られる瞬間の話だ。
名を刻むということ。要するに。
聖書は、
完成していた。
派手さはない。
主張もない。
だが、
目を逸らせない。
それが、
完成という状態だった。
献呈式は、
修道院の礼拝堂で行われた。
朝の光が、
高い窓から差し込み、
石の床に
細い帯を作っている。
人は多くない。
修道院長。
シスターたち。
数名の信徒。
そして――
革職人ギルドの代表として、
ハインリヒ・フォーゲル。
ハウス・グスタフからは、
グスタフと俺。
ないわー。
胃が、
少し重い。
聖書は、
祭壇の前に置かれていた。
エルサが、
そっと布を外す。
革の背が、
光を受ける。
静かだ。
修道院長が、
一歩前に出る。
「この書は、
多くの手を通りました」
「書いた手、
綴じた手、
包んだ手」
「そして」
一拍。
「語らせなかった手」
その言葉で、
息を止めた。
修道院長は、
革に触れる。
ごく軽く。
「言葉が、
邪魔されていません」
「だからこそ」
穏やかに、
そう言った。
「これは、
良い装丁です」
エルサが、
小さく頷く。
「なるほど」
その声は、
祈りに近かった。
献呈式は、
静かに終わった。
拍手はない。
歓声もない。
だが、
確かな区切りが
そこにあった。
礼拝堂を出たあと、
ハインリヒが
俺たちを呼び止めた。
中庭だ。
石畳。
冷たい空気。
「……要するに」
その言葉で、
背筋が伸びる。
「修道院案件は、
無事に終わった」
否定はない。
評価だ。
「監督としての
結論を述べる」
視線が、
俺に向く。
「この装丁工程に、
不正はなかった」
一拍。
「不純でも、
なかった」
ないわー。
胸の奥が、
一気に軽くなる。
「技が
前に出すぎる
場面もあった」
「だが」
「最終的に、
技は退いた」
「それは、
理解している者の
振る舞いだ」
ハインリヒは、
グスタフを見る。
「ハウス・グスタフ」
「監督下での対応、
評価する」
グスタフは、
短く頷く。
「……悪くない」
それだけで、
十分だった。
そして。
ハインリヒは、
再び俺を見る。
「テオドール・ゲルバー」
「はい」
喉が、
少し乾く。
「要するに」
「見習いの立場で
担う仕事ではなかった」
来た。
「ギルドとして、
判断する」
一瞬、
風が吹いた。
「お前を――」
間。
「職人として
認める」
音が、
遅れて戻ってきた。
自分の心臓の音だ。
ないわー。
急すぎる。
だが。
ハインリヒは、
続けた。
「条件はある」
「学んだことを、
急いで広めるな」
「だが、
隠すな」
「必要な場では、
説明しろ」
要するに。
「技を、
秩序の中に置け」
「はい」
自然に、
そう答えていた。
ハインリヒは、
それ以上何も言わず、
踵を返した。
工房に戻る途中、
グスタフが言った。
「……そう簡単には
いかないと
思ってたがな」
「はい」
「だが」
一拍。
「悪くない」
その一言が、
胸に残る。
工房に着く。
いつもと同じ。
桶。
革。
匂い。
だが、
世界が少し違って見える。
「……ゲゼレ、か」
呟くと、
実感が遅れてくる。
グスタフが、
革を一枚渡してくる。
「名前を、
入れろ」
「名前?」
「ゲゼレはその名前を内側に刻む」
「表じゃない」
「だが、
消えない場所だ」
俺は、
革を見た。
静かで、
正直な革だ。
「……すなわち」
口から、
言葉が出る。
「責任ですね」
グスタフは、
鼻で笑った。
「そう簡単には
軽くならん」
「だから、
刻む」
刃を取り、
小さく、
名を入れる。
Theodor Gerber
深くない。
だが、
消えない。
ないわー。
受け取った革を背中に背負う。
そして、
革から手を離した瞬間、
視界の端が、
かすかに歪んだ。
文字だった。
だが、
板に刻まれたものでも、
紙に書かれたものでもない。
空気の奥に、直接置かれたような文字。
【解析】
段階:マイスターランク第二階位
状態:有効
付与:
・工程時間解析
・失敗点予測(限定)
・素材履歴読取
制限:
・人間対象不可
・意図解析不可
そこで、
一拍遅れて
もう一行が浮かんだ。
【警告】
クレフェルト周辺
半径50km圏内
侵入制限:有
期間:三季循環
文字を読んだ瞬間、
理解が追いついた。
これは、
罰ではない。
追放でもない。
段階だ。
次の仕事に進むために、
一度、
この場所を
仕事の外に置け、
というだけの話だった。
エルサが、
工房の入口に立っていた。
「……おめでとう
ございます」
「なるほど」
そう言って、
微笑む。
そして目が背負う革の裏側を見る。
「名前が、
静かですね」
「はい」
「革が、
嫌がらなかったので」
「だからこそ」
エルサは言った。
「良い名入れです」
名を刻み終えた革を、
棚に戻す。
見習いではない。
だが、
マイスターでもない。
その間――
ゲゼレ。
その夜、
グスタフが言った。
「……知ってるだろうが」
声は低く、
事務的だった。
「しばらく、
この街には戻れん」
理由は、
説明されなかった。
だが、
分かっていた。
ゲゼレは、
歩く。
技を、
場所から切り離すために。
窓の外で、
鐘が鳴る。
修道院の時刻だ。
昼間のエルサの言葉が、
ふと浮かぶ。
巡礼は、
道そのものが問いになります。
その意味を、
まだ深く考える気には
なれなかった。
ただ。
そう簡単にはいかない道が、
もう用意されている。
そんな予感だけが、
静かに残った。
革は、
今日も
嘘をつかない。
そして――
次は、
歩く番だ。
ここまでお読みいただき、
本当にありがとうございます。
第12話で、
第一部は一区切りを迎えました。
聖書は完成し、
献呈され、
祈りの場に置かれました。
ですが、
この物語は
「成功した話」ではありません。
誰かが勝ったわけでも、
誰かが間違っていたわけでもない。
ただ、
それぞれが
自分の立場で責任を引き受けた
その結果が、
形になっただけです。
ハインリヒは、
最後まで
優しい言葉を使いませんでした。
それでも彼は、
判断から逃げませんでした。
グスタフは、
多くを語りません。
ですが、
弟子を一人
外の世界に送り出しました。
テオドールは、
まだ何者でもありません。
マイスターでもなく、
英雄でもない。
ただ、
職人になりました。
それは、
自由を得たということではなく、
一人で責任を負う資格を得た
という意味です。
だから、
道が始まります。
遍歴修行。
三年間、
この街には戻れない。
そして、
その道の先に
エルサの巡礼があります。
第二部は、
街の外の話になります。
条件も、
制度も、
正解も、
場所ごとに変わります。
革は、
きっと
また嘘をつきません。
ですが、
世界のほうが
簡単にはいかなくなります。
ここまで読んでくださった方に、
心から感謝します。
よろしければ、
もう少しだけ
この旅に
付き合ってください。




