第01話 - 革の臭いは、だいたい正しい。すなわち。
革は、嘘をつかない。
急かせば、割れる。
誤魔化せば、臭う。
待てば、応える。
だから職人は、
革よりも先に、
自分の手を疑う。
これは、
剣でも魔法でもなく、
声を荒げる英雄の話でもない。
場所に残り、
言葉を守り、
それでも歩かねばならない
職人の話だ。
静かな仕事は、
たいてい評価されない。
だが、
静かな革は、
最後まで残る。
――最初に壊れたのは、音だった。
いや、違う。
壊れたのは、匂いだ。
甘ったるい溶媒臭が、ある瞬間から“熱を帯びた匂い”に変わった。
数値にできない違和感。
だが、俺はそれを知っていた。
知っていたのに、止めなかった。
「圧が……上がってる。止めろ……!」
誰の声だったかは、もう曖昧だ。
自分だった気もするし、隣の席の誰かだった気もする。
赤い警告灯が点滅していた。
それは確かだ。
だが音は遠く、水の底から聞いているみたいだった。
化学薬品メーカー。
開発部。
皮革向け処理剤の耐久試験。
温度。
攪拌。
濃度。
滞留時間。
俺の仕事は、それらを“怒らせないこと”だった。
反応というのは、だいたい機嫌が悪い。
放っておくと、暴れる。
計算は合っていた。
安全率も十分だった。
――紙の上では。
ガラスが割れた。
いや、割れたというより、弾けた。
背中を蹴られたような衝撃。
熱。
空気が裏返る感覚。
息を吸った。
ないわー。
完全に、間違えた。
喉が焼け、肺が冷える。
世界が白く潰れる。
その白の中で、俺は妙に冷静だった。
――ああ、これが“やらかした”ってやつか。
すなわち、終了。
意識が途切れた。
次に世界が戻ってきたとき、距離感がおかしかった。
近い。
すべてが近い。
天井が低すぎる。
低すぎて、思考まで圧迫される。
梁がむき出しで、木は黒い。
黒いというより、時間を吸った色だ。
……臭い。
遅れて、臭いが殴ってきた。
獣脂。
湿った土。
腐りかけの肉。
酸っぱい発酵臭。
「……っ」
反射的に息を止めた。
ないわー。
ここでは、空気そのものがそういう匂いでできている。
「起きろ、テオドール」
低くて重い声。
見ると、でかい男が立っていた。
前掛け姿。
腕が太い。
皮膚に染みがある。
――革職人の手だ。
「いつまで寝てる。仕事だ」
(……テオドール?)
名前を呼ばれた瞬間、頭の中で歯車が噛み合った。
――テオドール・ゲルバー。
――十七。
――クレフェルト。
――革職人ギルド、見習い。
記憶が、説明もなく居座る。
「……は?」
声が出た。若い。
喉が痛い。
だが、あの薬品で焼けた痛みとは違う。
ただの乾きだ。
寝床は藁。
手を見る。
知らない手。
細くて、指が長い。
爪の間に黒い汚れ。
(夢にしては、現実が雑すぎる)
夢はもっと、優しい。
部屋を出ると、そこは革工房だった。
木桶。
土の床。
吊るされた牛皮。
皮は、まだ生き物だったことを覚えているみたいだった。
(……中世だな)
クレフェルト。
ドイツ西部。
ライン川の近く。
知っている。
俺が?
それともテオドールが?
すなわち、もう区別は無意味だ。
そのとき、視界の端が、わずかに明るくなった。
【解析】――マイスターランク
……はいはい。
空中に文字が浮かんでいる。
触れないのに、確かにそこにある。
吊るされた牛皮を見る。
保存状態:不適
腐敗リスク:27%
問題点:前処理不足/温度変動
改良案:――
「……」
俺は、ため息をついた。
あまりにも、
「見慣れた“失敗の顔”」だった。
革だろうが、薬品だろうが、同じだ。
反応は嘘をつかない。
怒る理由が、必ずある。
すなわち、対処すればいい。
「テオドール!」
怒鳴り声。
グスタフ親方だ。
「突っ立ってるな。水を汲め。今日は市に出す分だ」
(市に出す……失敗不可)
桶を覗く。
茶色い液体。
泡。
匂い。
(……熱い)
あのときと同じ警報が、頭の中で鳴る。
温度:高
危険:硬化・割れ
ないわー。
これは、見なかったことにしていいやつじゃない。
「……親方」
「なんだ」
「この液、熱すぎます」
工房が止まった。
「日陰に移して、少し冷ました方がいいです」
視線が集まる。
痛い。
グスタフが、俺を見る。
「理由は」
「……熱いと、皮が先に固まります。
中まで染みません。乾くと、割れます」
沈黙。
親方は泡を触り、匂いを嗅ぎ、革を揉んだ。
指先で、革と話している。
「……いい」
短い。
「やってみろ。失敗したら、お前の責任だ」
(……上等)
桶を移す。
水を足す。
攪拌する。
数字はない。
だが、理解はある。
危険:低下
状態:改善
(……静かだ)
反応が、落ち着いている。
木槌の音が再び動き出す。
視線の質が、少し変わった。
グスタフが言う。
「三日だ、テオドール」
「はい」
三日後。
革は、嘘をつかない。
すなわち、結果が出る。
俺は桶の中の液体を見つめた。
――もう、目を逸らさない。
化学エンジニアとして死んで、
革職人として目を覚ました。
ないわー、と思う気持ちはある。
正直、かなりある。
だが。
すなわち、やるしかない。
革の臭いの奥に、
確かに“始まり”があった。
それは、
だいたいの場合――正しい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
いきなり革の匂いから始まる第一話でしたが、
この物語はだいたい、こんな調子で進みます。
派手なことは、あまり起きません。たぶん。
テオドールは、
強いとか賢いとかよりも、
「急がない」人です。
革を急かすと機嫌が悪くなるのを、
たぶん一番先に学んだだけとも言えます。
転生や能力の話も、
最初はほとんど触れていません。
理由は単純で、
本人もまだ整理できていないからです。
ないわー、と思いながら生きています。
次からは、
工房の空気や、
職人たちの距離感が
少しずつ見えてきます。
合う人には、
たぶん合います。
合わなかったら、
それも正直な感想だと思います。
気が向いたら、
もう少しだけ
付き合ってもらえると嬉しいです。
革は、
これからだんだん
本音を出します。




