第9章 矛盾の温度
第9章では、共産党委員長・赤松誠一の視点を通して、イデオロギーと現実の狭間で揺れる姿を描きます。
「資本主義批判」という大きな理論を掲げながらも、目の前にいる市民の生活困窮や家族の痛みを前に、抽象的な言葉が無力化していく。
データ流出というサイバー危機が、単なる政治的論争ではなく、人々の日常に直結していることを、赤松自身が突きつけられる章です。
理想と現実、その温度差が生み出す矛盾にどう向き合うのか――ぜひ注目してお読みください。
一九六〇年、安保闘争で初めて拳を突き上げたあの日を思い出す。あの熱さは、今でもこの胸にあるはずだ。
午前八時。党本部の会議室。窓の外に見える靖国通りの銀杏が、まだ夏のままだ。机の上に広げた資料には「1億3千万件の流出は労働者搾取の証明」と記してある。私は幹部たちに語りかける。
「データブローカーは資本主義の癌だ。個人情報を商品として売買するこの構造こそ、まさに労働者の商品化そのものだ」
拍手が起こる。だが、その指先が震えている。孫の教育費が詐取された、という娘の電話が、まだ耳に残っている。
午後一時。国会。質疑台に立ち、マイクを握りしめる。
「SQLインジェクション脆弱性を3か月も放置した責任は、資本家のコスト削減思想の表れだ」
天城総理は、相変わらずの穏やかな顔で答える。
「高度なAPT攻撃でありまして」
傍聴席で、主婦が泣いている。「マイナンカーで買い物できない」と。私は理論で答える。
「システムの根本的改革が必要だ」
だが、その声は、自分でも空しく響く。水野から「共産党も規制法案に消極的だった」と指摘され、言葉に詰まる。
夕方五時。葛飾区の商店街。蝉時雨が響く。大野美紀という女性が、目の前で泣きじゃくる。
「明日の食費もないんです」
私は理論を展開しようとする。
「資本主義システム自体が──」
だが、言葉が出ない。城田彩のママ友だと知り、遼の修学旅行費のことを思い出す。同じ学校だ。
夜八時。自宅。エアコンが効かない。『共産党宣言』を読み直すも、文字が汗で滲む。妻の声が背中に刺さる。
「お前もMyNumber詐欺で年金減額されたんだから」
ペンを折る。机の上に並べた『共産党宣言』と「信用情報監視サービスの申込書」。天秤にかける。
その時、匿名メールが届く。
「流出データに天城総理のマイナンバーも」
破り捨てる。だが、指が止まる。机の隅に、スケッチを描き始める。「資本主義の矛盾」と「現実の痛み」を天秤にかける図。
深夜零時。最後に、『共産党宣言』を閉じた。そして、初めて「被害者救済法案」の下書きに手を伸ばす。「資本主義の矛盾」という言葉を削除し、代わりに「国民の痛み」と書き直す。
社会主義の理想とは、1億3千万の不安を、資本主義の崩壊で解消するのではない。今すぐの救済に理想を落とし込むことだ。
私は、孫の写真に向かって、初めて「ごめん」と呟いた。矛盾は、理論ではなく温度だと知った。
第9章をお読みいただき、ありがとうございました。
ここでは、共産党委員長・赤松誠一の視点から、イデオロギーの限界と現実の重さを描きました。
「資本主義の矛盾」と叫ぶことは容易でも、目の前で泣きじゃくる市民や、家族の生活の崩壊には直接の答えを返せない。
抽象的な理論の言葉が、生活の痛みを前にしてどれほど空虚に響くのか――赤松自身が直面し、最後に「国民の痛み」と書き直す姿に、現実へ歩み寄る一歩が示されました。
社会を変えるという理想は、遠い未来の革命ではなく、いま困窮する人をどう救うかに込められる。
その気づきが次の行動につながることを、読後に感じ取っていただければ幸いです。