第7章 機密の重さ
第7章では、防衛省サイバー防衛隊長・橘薫と、防衛政策局長・三浦剛志らを軸に、軍事機密と国民生活の狭間に立たされる防衛の現場を描きます。
「国家機密を守る」という大義と、「被害者を救う」という現実的な要請は、しばしば真っ向から衝突します。
その板挟みの中で、防衛官僚がどのように動くのか――組織の論理と人間の良心が交錯する瞬間を追っていきます。
陸自入隊時、サイバー戦なんて教科書に載っていなかった。いや、あったのは「電子戦」という一節だけだった──昭和のままだ。
午前八時。海老名基地のサイバー対策室。モニターの青白い光が顔色を悪く見せている。部下の佐藤二尉が報告する。
「NPD-J流出データと同一の署名証明書を検出しました」
画面には、SQLインジェクション(システムの鍵穴に偽の鍵を差し込む行為)の痕跡が灼き付いている。私は咳払いした。
「睡眠不足だ」
と誤魔化すが、3か月も放置した脆弱性が原因だと誰よりも知っている。
午後一時。防衛省本館。三浦防衛政策局長の机は、いつも整理されすぎている。
「北朝鮮関与説を国際社会に流せ。政治的に利用できる」
私は拳を握りしめた。ペンが床に転がる。
「SQLインジェクションは初心者でも実行可能な攻撃です。高度なAPTではありません」
三浦の眉がひそまる。
「軍事機密保護のため、真実は伏せろ」
午後三時。警視庁との調整会議。成瀬課長が待っている。
「流出データに自衛隊関係者情報も含まれる可能性があります」
私は『防衛省機密保護法第15条』の条文を唱えた。
「軍事機密のためお答えできません」
だが、トイレでこっそりUSBメモリを渡す。
「海老名基地のログだ。使ってくれ」
夕方六時。サイバー対策室。テレビで「信用情報監視サービスのサーバーダウン」ニュース。部下がつぶやく。
「うちの親も被害に遭ったそうです」
私は答えられない。C2サーバー(攻撃者の司令塔)の追跡に成功したという報告も、声が震えて聞こえない。
夜八時。自宅。娘から電話。
「修学旅行費が、マイナンカー詐欺で...」
震える声。私は軍用手袋で手を隠しながら、海老名基地の緊急対応マニュアルを開く。
「反撃許可申請書」
ペンが止まる。その時、匿名メールが届く。
「流出データに天城総理のマイナンバーも」
画面を消す。娘が描いた「パパはサイバーおにぎりマン」の絵が、スマホの待ち受けに微笑んでいる。
深夜零時。三浦局長に内々でメールを打つ。
「海老名基地のログを警視庁に送る」
送信ボタンが指に重い。防衛とは何か。国民の1億3千万の不安を、機密保護の壁で覆い隠すことではない。
私は最後に、娘の絵を見つめながら、軍規違反のメールを送信した。ペンを握りしめたまま、涙が軍用手袋に染み込んでいく。
第7章をお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、防衛省の内部において「軍事機密の保護」と「国民生活の救済」がせめぎ合う姿を描きました。
サイバー攻撃は戦争行為に近い領域で語られる一方、被害を受けるのは日常を生きる市民です。
その矛盾を前に、主人公は軍規違反を覚悟してまで行動に踏み出しました。
それは小さな反逆でありながらも、国を守るという言葉の本当の意味を問い直す行為でもあります。
防衛の現場もまた、人間の選択と良心によって支えられている――そう感じていただけたなら幸いです。