第6章 外交の虚構
第6章では、外務省局長・鷲尾健司の視点から物語が展開します。
海外から突きつけられる圧力、日本政府内部で隠される技術的事実、そして「同盟の信頼」と「国民の生活」の板挟み。外交の現場に立つ者の苦悩が描かれます。
国家間の交渉は、しばしば真実よりも都合の良い物語で進められます。
その虚構の中で、彼がどんな決断を下すのか――どうぞ注目してお読みください。
駐米大使時代、テロ事件で同じジレンマを経験した。その時も「真実より同盟」を選んだ。今日は、もう一度同じ選択を迫られている。
午前九時。米国大使館地下の会議室は、冷房が効きすぎて喉が渇く。ウォルシュ次官補がスライドを示す。
「流出データに横田基地関連情報が混在。北朝鮮関与の決定的証拠です」
私は微笑みながらメモを取る。だが、頭の片隅で九条の声が響いている。
「SQLインジェクション脆弱性の放置が原因。3か月間、誰も気づかなかった」
「日米同盟の信頼回復が最優先」
と報告書に記しながら、8月15日付のワシントンポスト記事が嘲笑うように見える。「日本の猛暑と無能さ」という見出しが。
午後二時。中国大使館。陳大使の後ろで蓮の花が咲いている。
「1億3千万件は日本の全人口超える矛盾。責任は?」
窓越しに見える東京のビル群が、蝉時雨の中で揺れている。答えたい言葉が喉まで出かかる。
「3か月間の放置は技術的──」
だが、外務省訓令が私を止める。
「技術的説明は控えよ」
結局、決まり文句を繰り返すだけ。
「独自調査中」
夕方五時。EUからの緊急要請。画面越しのブラウン局長が疲れきっている。
「流出データに欧州市民情報も含まれる」
私は冷静に答える。
「信用情報監視サービスのサーバーダウンについては深くお詫び申し上げます」
その瞬間、画面の隅に見えた。彼の後ろに置かれた家族写真。子供の教育ローンの書類。一瞬、心が揺れた。
夜八時。自宅。エアコンが効かない。外交報告書の文字が汗で滲む。
「日本の国際的信用もこれと同じだ」
妻からの電話が鳴る。
「遼の教育費が詐欺被害で...」
声が震えている。私は机の下に隠した報告書を見る。「海老名基地システム改ざんデータ」。九条から送られてきた。
「米国務長官との会談成功のプレスリリースを書いている」
と嘘をついた。その時、匿名メールが届く。
「流出データに天城総理のマイナンバーも」
画面を消す。息子の写真が机の上で私を見ている。
深夜零時。最後の外交文書を書き上げる。
「本件につき、日本政府は...」
ペンを置いた時、初めて気づいた。私は1億3千万の不安を、1つのnote verbaleで隠蔽する外交官なのだ。
妻の電話を切った後、報告書に初めて記した。
「技術的脆弱性の放置が原因」
その一文を、私は息子の写真の前で破り捨てた。そして、新しい外交文書を書き始めた。真実は書けない。だが、少なくとも「被害者救済を最優先」という一文だけは残そう。
外交とは、真実を隠蔽しながら、明日の外交関係を守ることだ。
第6章をお読みいただき、ありがとうございました。
ここでは、外務省局長・鷲尾健司の立場から、国際社会における日本の脆さと外交の虚構を描きました。
「日米同盟の信頼回復」と「技術的脆弱性の真実」。どちらを優先するかという板挟みは、外交官ならではの宿命です。結局、彼が残せたのは建前の言葉と報告書だけでしたが、その裏で揺れる心情は、現実の政治とも地続きに感じられるはずです。
この章を通じて、外交の華やかさの裏側にある「嘘と沈黙の重さ」を少しでも伝えられていれば幸いです。