第5章 蝉の音と嘘
第5章では、与党の若手議員・岡部隼人の視点から物語が進みます。
党内の圧力と理想の狭間で揺れ動きながら、彼は「被害者救済」という言葉を原稿に書き加える決断をします。
政治利用が優先される空気の中で、彼の行動は軽視されるかもしれません。
しかし、その一文が示すのは、権力闘争ではなく「人を守る政治」への小さな芽生えです。
若さゆえの迷いと、それでも譲れない思いが交錯する姿を、どうぞお楽しみください。
比例代表(当選の保険)のおかげでここにいる、などと誰も言わないけれど、私自身がそう思っているのは確かだった。
午前八時三十分。神谷副総裁の執務室は、古いエアコンの風で湿り気を帯びていた。紫檀の杖が私の原稿を指している。
「1億3千万件は日本の全人口を超える矛盾だ。こんな数字を野党に突きつけたら、逆に笑われるだけだろう」
私は鉛筆を握りしめた。原稿の「SQLインジェクション脆弱性の放置」という一文に線を引かれる。技術的説明は野党に主導権を渡す、という党本部の「お達し」(実質的な命令)だった。
「水野党首のマイナンバー流出を暴露しろ。都議補選で勝てば次期大臣だ」
蝉の声が窓の外で張り裂けそうに鳴いている。私は頷いた。政治家としての志は、こんなにも簡単に曲がるものなのか。
午後一時。埼玉県の公民館。冷房の効きすぎた会場で、ワイシャツが汗で張りつく。大野美紀さん、三十五歳。ママ友の城田彩の母親だった。
「議員さん、私たちを守って」
彼女の声は震えていた。マイナンバー詐欺で貯金200万円が消えたという。それでも「信用情報監視サービスのサーバーダウンで生活保護申請も遅れて」と、唇を噛みしめる。
「法律で守れない国民がいる」
その事実が、初めて胸に突き刺さった。地元の小学校で見た「サイバーおにぎりマン」の落書きが頭をよぎる。あれは、私が描いた政策キャラクターだった。
午後五時。国会対策委員会。野党批判に集中する修正案を書きながら、メールが届く。匿名。海老名基地のシステム改ざんデータも流出しているという。神谷に報告すべきか、指が震える。
夕焼けが大理石の床に映る。私は「被害者救済を最優先」という一文を原稿に書き加えた。すぐに党本部から怒鳴り声が入るだろう。
夜八時。自宅マンションのベランダ。妻と言い争った。
「明日の都議補選応援に行けない」
「また仕事優先?」
「違う。政治家を辞めたい」
言葉が出た瞬間、自分でも驚いた。妻は黙って部屋に戻った。
街の明かりが、1億3千万の暗闇を彷彿とさせる。スマホで藤原梨花の動画を見る。「与党若手も加担」という文字が躍る。私は呟いた。
「自分も嘘つきだ」
翌朝。国会到着前、神谷から電話。
「昨日の原稿、被害者救済の一文は削除しろ」
私は答えた。
「削除しません」
「何?」
「2期目の若造が何を言うかと笑われても、これだけは譲れません」
電話を切って、私は原稿を抱えて議事堂に向かった。蝉が鳴き始めている。今日は、どんな嘘をつくのだろう。でも、少なくとも「被害者救済を最優先」という一文だけは、本当にしたい。
第5章をお読みいただき、ありがとうございました。
ここでは、与党の若手議員・岡部隼人の視点を通して、政治の現場における「理想」と「現実」のギャップを描きました。
党内の論理に従えば昇進や将来は約束される一方で、被害者の声に耳を傾ければ孤立や失脚のリスクを背負う。そんな板挟みの中で、彼が最後に残した「被害者救済を最優先」という一文は、小さな抵抗でありながら確かな意味を持ちます。
この章を通して、政治家という存在もまた不安定な人間であり、日常に生きる誰かと同じように揺れながら選択をしているのだと伝われば幸いです。