第3章 官僚の痕跡
本作は、日本社会を揺るがす大規模なサイバー攻撃を題材に描いた群像劇です。
総理大臣、官僚、議員、ジャーナリスト、そして市民まで、立場の異なる人々が同じ危機に直面し、それぞれの「選択」と「葛藤」を重ねていきます。
難しい専門用語も出てきますが、サイバーセキュリティを背景にしながらも、物語の核心は人間の生活や感情にあります。
技術と政治、そして日常が交錯する物語を、どうぞ最後までお楽しみください。
キャリア採用の35歳の頃、こんな危機対応は想定していなかった。
午前7時45分。官邸別館の私室で、NPD-Jのログファイルを開いた瞬間、指先が震えた。3か月前からの不審アクセス記録。SQLインジェクション(データベースを不正操作する攻撃手法)の痕跡が、まるで害虫の這い跡のように残されている。机の上の「個人情報保護法第24条」の資料を無意識にめくると、そこには「遅滞なく公表すること」とある。だが、公表すれば与党の都議補選スケジュールは狂う。天秤にかけるのは、法律と政治の重さだった。
「九条統括官、防衛省の橘様がお見えです」
秘書の声に顔を上げると、時計はすでに14時30分を指している。会議室では、橘薫が腕組みして待っていた。
「海老名基地のログは軍事機密です。軍事機密というのは、つまり、軍事機密なんです」
三回繰り返された「軍事機密」という言葉に、私は内心で舌打ちした。国家レベルの危機だ。だが、口に出したのは決まり文句だった。
「当省の対応は個人情報保護法に基づくものでございます」
会議が終わると同時に、私は吉岡慎吾に連絡した。
「個人の責任で送る。橘には内緒だ」
夕方、霞が関のサーバールームは異様に冷えていた。8月の冷房の効きすぎで、コーヒー漬けのネクタイを震える手で締め直す。
「攻撃元IPに内閣府証明書が使われている」
吉岡の声が震えていた。モニタには、北朝鮮式の特徴を持つ攻撃コードが表示されている。だが、私はすぐに判断した。政治的解釈を避けるため、報告書からは削除する。
「SQLインジェクションは初心者でもできる攻撃だ」
吉岡が呟く。私は自問した。なぜ3か月も気づかなかった?だが、上司への報告書では「高度なAPT攻撃」と書き直す。これが現実だ。
夜8時。信用情報監視サービスのサーバーダウン報告が入った。テレビでは、主婦が「クレジットカードが使えない」と嘆いている。だが、官邸からは「被害拡大の報道を控えよ」との圧力がかかっている。
終電を逃したオフィスで、私は妻からのメールを開いた。
「遼のPTA会議をまた欠席?遼がお父さんのことを『いない人』と呼んでいる」
返信せず、私は「流出データ削除要請」の下書きを続けた。その時、深夜のメールが届いた。
「流出データに水野党首のマイナンバーも含まれる」
匿名の情報。報告すべきか、ためらう指先。机の引き出しから、退職願の下書きが顔を出す。「官僚としての限界を感じる」。だが、緊急メールの音で、その紙は破り捨てられた。
隣の課から、若手の泣き声が聞こえてくる。「上司に怒られた…」。私は自分のメールを打つ音を小さくした。窓の外では、「マイナンバー詐欺にご注意」の広報車が流れている。通りすがりの小学生が「お父さん、ゲームの課金が…」と泣きじゃくる。
机の上には、息子の描いた「パパはサイバーおにぎりマン」の絵がある。私はそれを裏返しにして、またメールを打ち始めた。明け方の5時、ようやく削除要請の下書きが完成した。画面を消してから、妻のメールを何度も読み返した。
「いない人」
その言葉が、冷えきったオフィスに響いていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第3章では、官僚・九条雅彦の視点から「制度」と「現実」の狭間で揺れる姿を描きました。
海老名基地のログ、匿名メール、そして家庭の小さな断片が、ひとりの人間の限界と葛藤を浮き彫りにしています。
サイバー攻撃という無機質な出来事の裏で、人間の感情や生活がどう揺さぶられていくのか――それこそが、この作品を通じて伝えたい部分です。
次章ではまた新たな視点から、事件の輪郭が少しずつ形を帯びていきます。
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