第14章 おにぎりの温度
第14章では、城田家の視点から、サイバー危機が家庭の日常へと押し寄せる姿を描きます。
給食費の支払いエラー、年金の不着、そして修学旅行費の消失。
これまで国家や政治の舞台で語られてきた問題が、ついに台所と食卓の現実として突きつけられます。
しかし、同時に描かれるのは「おにぎり」という小さな温もり。
1億3千万件の不安に揺れる社会の中で、家族の絆が示す救済の形にご注目ください。
新婚の頃、彩と作った初めてのおにぎりを思い出す。塩加減を間違えてふざけ合ったあの日、こんな未来は想像していなかった。
午前七時。キッチンはエアコンが効かず、8月の陽射しがテーブルに落ちる。妻がスマホを握りしめて泣いている。
「遼の学校給食費、支払えないって…エラーになるの」
私は冷蔵庫の扉を開けるフリをして、画面を隠した。闇市場のサイトに、城田家のマイナンバーが「1件500円」で並んでいる。指が震える。
「システムの不具合だ。すぐ直るよ」
嘘だ。SQLインジェクション脆弱性の放置——その当事者は俺だ。息子が描いたサイバーおにぎりマンが、冷蔵庫に貼られたまま笑っている。
午後一時。チャイムが鳴る。父が訪ねてきた。Tシャツの襟が汗で濡れている。
「年金が振り込まれないんだ」
ソファに座り、タオルで額を拭く。「政府の無能さだ」と愚痴る声に、私はテレビのリモコンを握りしめる。ニュースで「信用情報監視サービスのサーバーダウン」と流れる。真実を言えない――俺も同じ穴を開けている。
夕方五時。大野美紀が来た。居間のカーテンが蝉時雨を遮る。
「遼、大丈夫? うちの彩ちゃんも…」
妻がこっそり貯金箱をあさる音がする。硬貨がカランと鳴る。私はコップの水を一口飲んで、言葉を飲み込む。
「大丈夫だって。ニュースは大げさだから」
大野が持つ「マイナンバー危機」の手作りプラカードが、薄暗い部屋で白く浮かぶ。
夜九時。遼は寝息を立てている。額にタオルを当てながら、妻が静かに言う。
「ねえ、正直にして」
私は机の上に並べたものを見る。副業求人サイト。遼の修学旅行費の見積もり。三万八千円――俺が売った「安全」の値段だ。
「実は…俺たちも被害に」
声が震える。妻は黙って立ち上がり、キッチンへ。冷蔵庫の音が響く。戻ってきた時、彼女の手にはおにぎりが二つあった。
「おにぎり作ったよ。塩加減、ちょっと濃いめ」
温もりが手に伝わる瞬間、初めて気づいた。1億3千万の不安を、1つの温かいおにぎりで包むことだってできる。
妻が微笑む。
「副業より、今週末、遼とおにぎり作ろうよ」
机の上の副業求人サイトを閉じる。代わりにメモを書く――「遼とおにぎりを作る週末計画」。蝉時雨が、少し遠のいた気がした。
第14章をお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、城田家の日常を通して、サイバー危機がいかに家庭の台所や子どもの生活にまで影響を及ぼすかを描きました。
政治や官僚の世界で語られる「1億3千万件の流出」という巨大な数字は、実際には一人ひとりの給食費や年金、修学旅行費といった小さな生活の破綻に直結しています。
そして、その不安を支えるのは法律や制度ではなく、最後に差し出された「おにぎり」の温もりでした。
サイバー攻撃の被害は冷たい数字として報じられますが、その裏側には必ず人の体温があります。
家族の支えがどれほど大きな意味を持つのか――その実感を、この章を通して感じていただけたなら幸いです。




