第1章 蝉時雨の流出
この作品は、現代日本を舞台にしたサイバーセキュリティ群像劇です。
記者・総理大臣・官僚・市民など多様な視点から、社会を揺るがすサイバー事件を描きます。
専門用語は出てきますが、物語として楽しめるように工夫しています。
【取材メモ:2024年8月15日(木)晴 最高気温37.2℃】
・06:45 官邸前到着。蝉時雨が異常にうるさい。警備員3名が早朝から立ち尽くす。
・07:12 外務省・情報通信課・山田氏(42)「NPD-Jのシステム、SQLインジェクションでパスワード認証がスルーされたらしい」
・07:15 メモ:SQLインジェクション=URLにSQL文を仕込んでデータベースに不正アクセス? 技術部に確認要。
・07:33 気温28.7℃。スーツの背中が汗でべたつく。冷房の効きすぎた官邸内に入ると、腕に鳥肌が立つ。
・07:45 官邸記者クラブのテレビモニターで、他社の朝刊をチェック。まだ一面扱いはなし。タイムラグをどう生かすか。
・08:02 廊下で偶然聞いた九条統括官の小声「海老名基地のシステムも…」→伏線か? 防衛省ルートに確認。
朝の官邸前は、例年になく緊張感で張り詰めていた。異常高温の8月15日、蝉たちがまるで警告のように耳障りな鳴き声を張り上げている。私は腕時計を確認する。午前7時12分。まだ記者会見の予定はないが、外務省の情報通信課に知り合いがいると聞いて足を運んだ。
「やあ、君も朝イチか」
声をかけてきたのは、フリーの如月美沙さんだった。大手新聞を辞めてからも、鋭い嗅覚だけは衰えていない。
「NPD-Jのシステム、SQLインジェクションでパスワード認証がスルーされたらしい」
山田氏の小声が耳に残る。SQLインジェクション──技術部の同期に電話して説明を求めたが、聞き取れるのは「URLにSQL文を仕込む」という断片的な言葉だけだった。もどかしい。政治記者として、技術的な脆弱性を正確に伝えられない自分に歯がゆさを感じる。
午後2時、榊原官房長官の緊急記者会見が始まった。会見場は冷房が効きすぎていて、肌寒さすら感じる。榊原長官のネクタイは、すでに汗でシミができていた。
「本日、日本パブリックデータ社より報告がありました。マイナンバー情報の流出が確認されました」
長官の声は震えていた。マイクを握る手もわずかに震えている。時計は14時07分。
「流出件数は、1億3千万件です」
会場がどよめいた。この数字は日本の全人口を超える。矛盾だ。誰かが声を上げた。
「1億3千万件という数字は、日本の人口を上回ります。正確なのですか?」
榊原長官の額に汗が伝う。原稿を読む声は、ますます小さくなっていく。
「重複登録や、過去のデータも含まれております」
私はメモを取りながら、心の中で呟く。この数字は日本の全人口を超える。何かがおかしい。政府は何を隠しているのか。
会見終了後、廊下で主婦の姿を見かけた。子供の手を引きながら、不安げにスマートフォンを見つめている。
「マイナンバー持ってて大丈夫?」
その問いかけに、子供は「知らないよ」と答えるだけだった。日常と非日常が交錯する瞬間だった。
夕方、SNSをチェックすると、#マイナンバー危機がトレンド入りしていた。藤原梨花という名のインフルエンサーの動画が100万再生を突破している。
「政府が3か月も隠蔽してたんです。私たちの個人情報が、闇市場で売られてるかもしれない」
動画の背景には、信用情報監視サービスのサーバーダウンを知らせる画面が映し出されている。一般市民の混乱が、リアルタイムで広がっていく。
夜、片桐先輩と居酒屋で情報戦略を練った。先輩は、政府関係者からの裏情報をこっそり教えてくれる。
「流出データは闇市場で1件500円で売られているらしい。1億3千万件分が、全部売れたら650億円になる」
私は衝撃を受けた。私たちの個人情報が、たった500円で売買されている。政府は3か月も何をしていたのか。
「速報は正確さよりスピードだ」
編集長の言葉が頭をよぎる。でも、私たちが伝えるべき真実は何なのか。
居酒屋を出ると、8月15日の夜は、異様に明るかった。街のあちこちで、マイナンバーの再発行を求める人々の行列ができていた。私は夜空を見上げる。闇市場で売られる1億3千万の「私」を、政府は本当に守れるのか。
真実とは、たぶん、この問いに対する答えなのだろう。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第1章では、記者会見とマイナンバー流出の衝撃を描きました。
次章では視点を総理大臣に移し、国家レベルの対応と葛藤を描いていきます。
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