第九話 「ありがとう」
こぼれ落ちる涙を両手で拭い、もう大丈夫、と心に言い聞かせる。
伸江さんはまるで、いつものように眠っているみたいだ。
森田さんが静かに一歩前へ。
「確認しますね」
胸元にそっと手を当て、首元に触れる。ほんの数秒。
「……はい」
と小さく頷いた。
「先生に連絡してきますね。来られるまでには少しお時間がかかると思います」
そう告げると娘さんは涙を拭い、ゆっくりと姿勢を正した。
「わかりました。よろしくお願いします」
はっきりとした口調だった。
森田さんが部屋をあとにすると、山野さんと私は伸江さんのそばへ静かに歩み寄った。
ここでは本格的な清拭や体位の大きな調整、化粧などのエンゼルケアは、医師の確認を待ってから行うことにしている。万が一のこともあるからだ。確認が済むまでは踏み込んだことはしない。
私たちは伸江さんの顔を優しく拭き、口元を整え、身体の向きをわずかに直すにとどめた。
それが終わると、医師が来るまでのあいだは家族さんだけで過ごしてもらえるよう、そっと部屋を出た。
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フロアに出ると前田さんの姿があった。
伸江さんの対応でスタッフの手が取られているだろうと、ほかの利用者さんからナースコールがあった場合に備えて来てくれたようだった。
「前田さん、さっきは呼びに来てくれてありがとう」
それから森田さんに向き直る。
「知らせてくれてありがとうございました」
「ゴンちゃん、ぎりぎりまで伸江さんのことを気にしていたでしょう。もしまだ間に合うならって、とっさに思ったの。ごめんね。帰るところだったのに、結局遅くまで残ってもらうことになって」
「……いえ。本当にありがとうございます。あのまま帰っていたらきっと後悔していたと思います。それと──」
言葉を切り、少し視線を落とす。
「大泣きしてしまって……すみません」
仕事中とはいえ、人間だから泣くことが悪いとは思わない。母の時も、ホスピスの看護師さんたちは涙を流してくれていた。
それでも今回は、家族さんの前で感情が出すぎてしまったのではないか──そのことが少し気にかかっていた。
森田さんがふっと表情をゆるめる。
「いや、よく堪えていたと思うよ。大泣きと言っても声を出さないように気を遣っていたでしょう。大丈夫。家族さんも温かく受け止めてくれたんじゃないかな」
それを聞いて山野さんが小さく笑う。
「前にいたスタッフ、あの人はすごかったですよね」
「……ああ、あれは少し驚いたわね」
私が首をかしげると森田さんがクスッと笑った。
「ずいぶん前に感情の激しいスタッフがいてね。ある利用者さんが亡くなった時、家族さんの前で、“わーっ”って泣き叫んじゃったの。家族さんも少し引いているのがわかるほどで。慌てて部屋から連れ出したことがあったのよ」
「あそこまでいくとさすがにね。ゴンちゃんはちゃんと抑えてたから気にしなくて大丈夫」
2人にそう言ってもらえて心がずいぶん楽になった気がする。
「ありがとうございます」
微笑む私を見て森田さんは優しい顔をした。
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「前田くんもゴンちゃんも遅くまでありがとう。もうすぐ先生が来ると思うから、私はもう少し残っているわ」
「森田さんもお疲れ様です。じゃあ最後にもう一度だけ伸江さんの顔を見てから帰らせてもらいます」
「じゃあ、俺も挨拶させてもらいますね」
前田さんと私は最後のお別れを言うために伸江さんのもとへ向かった。
きっと部屋では家族さんたちが悲しみの中、静かに最後の時間を過ごしているのだろう。そう思うと、お邪魔してしまうのではないかという気持ちがよぎり、私は控えめにノックをした。
「あ! はい……!」
少し驚いたような声が返ってきた。
そっと扉を開けると、家族全員が一斉にこちらを振り向いた。どこかばつの悪そうな表情──手にはお弁当、テーブルの上にはお菓子やパン、ペットボトルの飲み物が並んでいる。
「あー、すみません、散らかしちゃって……先生が来るまでに食べておこうかと思って」
口をモグモグさせながら、息子さんが申し訳なさそうに言った。
そういえば、お弁当を部屋で食べてもいいかと聞かれたっけ。そのあと伸江さんが急変し、食べそびれていたのだろう。
さっきまで沈んでいた雰囲気はやわらぎ、部屋にはどこか温かい空気が流れている。
みんな泣き腫らした目をしているものの、笑顔でお弁当を頬張っていた。伸江さんを囲むように座り、家族そろって食べたり飲んだりしている様子はまるで宴会のようだ。
前田さんと目を合わせ、思わず2人でクスッと笑う──その瞬間肩の力がふっと抜けた。
「この様子を見たら、お母様もきっと喜びますよ」
私の言葉に娘さんがそっと天井を指さす。
「まだあのあたりにいて、見ているんじゃないかしら?」
「……きっとチョコちゃんと一緒ですよね」
「チョコにまたがって天国に行ったりして」
以前飼っていたという秋田犬のチョコちゃん。小柄な伸江さんなら本当に乗れてしまいそうだ。そう思うと、つい小さく吹き出してしまった。
つられて娘さんも声をあげて笑う。横ではお孫さんたちが、
「チョコちゃんって?」
と首をかしげる。いつのまにか伸江さんの周りはにぎやかな雰囲気に包まれていた。
「すみません、こんな時に騒がしくしちゃって」
娘さんが謝るとお嫁さんがそっと口を開いた。
「でもそのほうがお義母さん、寂しくなくていいですよね」
息子さんも頷きながら、
「そうそう。でも、“あなたたちばかり楽しそうにして!”ってすねているかもよ」
その言葉にまた小さな笑いが広がった。
笑い声の中で伸江さんもまだその輪の中にいるような、そんな優しい時間が流れ、部屋には温もりが満ちていた──。
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「素敵な家族さんでしたね」
階段を降りながら、前田さんが静かに口にしたその言葉に私は大きく頷いた。
「ああいう終わり方って本当に伸江さんらしいよね」
あんなに悲しかった別れのあとでも家族さんの笑顔を思い出すと、今は不思議とほっとする。
「お疲れ様でした。じゃあまた明日」
施設を出ると、藍色の空には星が瞬いていた。自転車のハンドルに手をかけ、見上げながら思う。
最期の別れの形は本当にいろいろだ。
立ち会えない人もいる。亡くなったあとにそっと寄り添う人もいる。前田さんが話していた吉見さんの家族さんのように、涙よりも先に慌ただしく片付けを始める人もいる。
立ち会えたとしても静かに時間が流れることもあれば、私の母のように張り詰めた空気の中で迎えることもある。
そして──伸江さんのように温かくにぎやかな雰囲気に包まれて見送ることもある。
そのどれも私が決められるものではない。
私はただここで、その人らしい最期に少しでも近づけるよう日々支えるだけだ。
長谷さんが入居した時に口にした言葉。
“姨捨山のようなところ──”
そんな場所にはしたくない。決してそう思わせない場所にしたい。心からそう思い、もう一度空を見上げる。
すると伸江さんがチョコちゃんにまたがり、得意げな顔で手を振っている姿がふっと浮かんだ。
もう明日ここで会うことはない、という静かな寂しさが胸に広がる。けれど、その隣には優しいぬくもりも確かに残っている。
私はそっとペダルを踏み込んだ。
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「やっぱり寂しいですね」
伸江さんの部屋の前で理沙ちゃんがぽつりと言った。
あれから1週間──先ほど娘さん一家が来て荷物を運び出していったところだ。
「ここでお世話になって本当によかったと思います」
娘さんのその言葉が静かに心に残る。何よりも嬉しい言葉だ。
ドアを開け、がらんとした部屋をもう一度見渡してから、そっと閉める。
ひとつ、区切りがついた──そんな気がした。
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フロアではおやつの時間がゆっくりと流れていた。おしゃべりをしたり食べることに夢中になったり──みんな思い思いに過ごしている。
おやつのムースをひとつトレイに載せ、キクちゃんの部屋へ向かう。
「今日はいちごのムースだよ」
キクちゃんは優しく微笑んだ。いつものようにベッド上で体を起こし、ゆっくりと介助して食べてもらう。
「……伸江さんがね、いなくなってからね、向かいの席の磯野さんが、なんとなくおとなしくなっちゃった気がするんだよね。やっぱり寂しいんだろうな」
仕事で気になることをつい話してしまう。そんな私に迷惑そうな顔もせず、小さく頷きながら聞いてくれる。
「あ、でもね、長谷さんがね、最近食欲が出てきたから、しばらくベッド上で食事を取ってたけど、キクちゃんみたいに食事の時だけでもフロアに出てきてもらおうかと思っているの」
キクちゃんは目を細めた。
「伸江さんの座っていたところに来てもらおうかな。近くに誰かいたほうが磯野さんも嬉しいだろうし」
看取り対応となった長谷さんだけど、少しずつ食事量が増えて体調も持ち直してきた。相変わらず息子さんは面会には来ないけれど。
「あ、そういえばキクちゃんも乗り越えたんだよね」
そう言うとキョトンとした顔で私を見る。その表情が可愛くて、思わずクスッと笑ってしまった。
キクちゃんは3年ほど前に誤嚥性肺炎で入院した。退院後は食事も進まず体力が落ち、往診医と家族さんが話し合った結果、看取り対応となったことがある。
それでも少しずつ回復し、ほとんど寝たきりではあるものの、今後何かあれば治療を希望したいという家族さんの意向もあり、その後看取り契約は取り消された。
「長谷さんもキクちゃんみたいに復活するかもね」
看取り契約の解除を息子さんが申し出るかはわからない。けれどそんなことは考えても仕方がない。ただ素直な気持ちで、長谷さんが元気になってくれたらいいな、そう思った。
「キクちゃんもこれからも元気でいてね」
私の言葉に小さく何度も頷く。
キクちゃんは本当に私の心の支えになってくれている。つらいことも悲しいことも嬉しいことも、いつも真剣に聞いてくれる大切な人。
それでもいつかは、キクちゃんともお別れの日は来る。私がここにいる限りそれは避けられないことだ。
でもその時は母や伸江さんの時のように、悔いのないように見送りたい。だから今は、こうして一緒にいられる時間を大切にしよう。
「キクちゃん、いつもありがとう。これからもよろしくね」
そう言って立ち上がろうとした、その時──
「……こっちこそ……いつも、ありがとう……ほんとうに、ありがとう……」
え……?
私は驚いてしばらく何も言えなかった。
“はい”とか“いたい”といった短い言葉はごくたまに口にするけれど、こんなに長くはっきりとした言葉をキクちゃんの口から聞くのは初めてだった。
こういう瞬間に触れるたび心から思う──この仕事を選んでよかった、と。
私はもう一度、ゆっくりと口にした。
「ありがとう」
第十話 完
このエピソードをもちまして、本編は一区切りとなります。ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。
終章として、あと一話投稿して物語は完結します。最後までどうぞよろしくお願いします。




