第六話 帰る場所
パソコンに向かって、淡々と入力を続けていると、またドアが開いた。
「……あ、権田さん、まだいたんですね」
顔を覗かせたのは、前田さんだった。
3階のフロアリーダー、前田遼さん。29歳にしては落ち着きがあり、長身でイケメン。
私の息子と言ってもおかしくない年齢なのに、先輩で上司。けれど、落ち着いた物腰と穏やかな話しぶりのおかげで、こちらも構えずに話せる。
「高山さん、大丈夫だったんですか?」
事故が起きたのは2階だけど、ちゃんと情報共有されている。
「うん、もう寝てる。手はちょっと腫れてるけど、動くし、受診は見送りになったの」
「……よかったです。ああいう時、焦りますよね」
そう言いながら、前田さんは事務所の端に置いてある椅子に腰を下ろした。
「“帰ります”って言い出すのって、だいたいあの時間帯ですよね」
「夕暮れ症候群、て言うの?ほんと、毎日あの時間が来るのが怖いくらい」
「“家に帰れませんよ”なんて、言えないし。かといって“明日帰りましょうね”っていうのも……そういう嘘は、ちょっとね」
「うん……私、今日それ、言いそうになって──」
前田さんが、静かに頷いた。
「でも、“帰れない”っていう現実を、そのまま伝えるのもまた難しいですよね」
「久世ちゃんは言うんだけどね。はっきり、“帰る家はもうない、ここが家だ”って」
苦笑いしながら私は言った。
「うん……でも、あれはどうなんだろうね。あの言い方はちょっとね」
前田さんも、苦笑い。
「言い方はともかく、本当のことを言って我に返る人もいるかもしれないけど、逆にパニックになる人もいると思うの。正しさと優しさ、どっちを選ぶか、毎回ゆらぐのよ」
言葉にしてみると、胸の奥にわずかな引っかかりが残った。私は視線を落とし、少し間を置いてから続けた。
「“その場しのぎ”って分かってても、嘘をつかざるを得ない時もあって……でも、それで余計に混乱させちゃうこともあるし」
ふたりの間に、ふっと静けさが降りた。
「……難しいですよね」
前田さんの声がぽつりと落ちた。
「“本当のこと”って、誰の本当なんだろうって……思うのよね」
自分の言葉に、私はふと、高山さんがずっと持っていた黄色いカーディガンを思い出した。あのカーディガンもまた、彼女の“帰る場所”とつながっていたのかもしれない。
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高山さんがいつも胸に抱えていた、あの黄色いカーディガン。「これは母が編んでくれたの」と言っていた。
「母は編み物が上手でね、私のためにこれを」
そう話す時の高山さんは、少し照れくさそうで、でもとても嬉しそうだった。
だけど、カーディガンの首元には、白く新しいタグがしっかりと縫い付けられていた。既製品であることは、誰の目にも明らかだった。
けれど──それが、なんだというのだろう。
あのカーディガンは、高山さんにとって“母のぬくもり”そのものだった。それを否定する理由なんて、どこにもない。
どれが現実で、どれが記憶で、どれが願いなのか。その境目は、曖昧でぼんやりとしていて、ときどき重なり合っている。
でも、少なくともその人にとっての“現実”は、確かにそこにあって。それはもしかすると、“こうだったらよかった”という理想と、静かに結びついているのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、母とのやりとりを思い出した。
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ホスピスに入ってからのある日、母が私にこう聞いた。
「美加ちゃん、ここ……どこ?」
私は少し間をおいて、「ここに住んでるんだよ」とだけ答えた。
母は、自分がどこにいて、なぜここにいるのかを、もうわかっていない。──私は、そのことをちゃんとわかっていた。
母は目を見開いて、「えっ、ここが今の私の家なの?」と、驚いたように聞き返す。私は、「そうだよ」と、笑ってみせた。
すると母は、少し困ったように眉を寄せて言った。
「……じゃあ、家賃払ってるの? ちゃんと払ってる?」
「払ってるよ、大丈夫。安心して」
「でも、家あるのに……もったいないね、家賃。もったいないよね」
「そうだね。でも大丈夫。早く元気になれるように、ここにいるんだよ。元気になったら、帰ろうね」
私がそう言うと、母は少しほっとした顔をして、「そうだね……帰ろうね」と言った。
──その「帰ろうね」に、胸が詰まった。
ここが、最期を迎える場所だということを、私はわかっていたから。それでも、私は「帰ろうね」と言っていた。
あの時の自分に、正しかったと言える自信はない。でも、間違っていたとも言い切れない。
それでも、人は“帰る場所”を探している。
ここ、ブルースターにも──それぞれ違う理由で、たどり着いた人たちがいる。
一人暮らしをしていたけれど、将来が不安で、自ら入居を決めた永田さんみたいな人。
家族と暮らしていたけど、認知症が進んで、介護が限界になって入居した人もいる。
あるいは、一人暮らしを続けていたけど、地域での生活が困難になって、でも家族には頼れず、施設に入らざるを得なかった人たちも──
誰ひとりとして、同じ事情の人はいない。
みんな、もともと“家”を持っていた。あるいは、今も持っているけれど、そこには帰れない。
だからこそ──
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「“家”って、どこなんだろうね……」
ぽつりと私が呟くと、前田さんが「ん?」と顔を上げた。
「いや……ここにいる人たちにとっての“家”って、どこなんだろうなって思って」
「……あー。難しいな」
前田さんは少しだけ考えてから、ニッと笑った。
「でも俺、“ここが家だな”って思ってくれてる人、多いと思いますよ?」
「そう……だったらいいな」
ここが“家”だと思ってくれる人が、ひとりでも増えたら。
高山さんの持つカーディガンが“母の手編み”になるように、ほんの少しずつでも、ここが“帰る場所”になっていったら──
そのために、私も、できることを少しずつ見つけていけたらいい。
大きなことじゃなくても、日々の小さなことの積み重ねが、誰かにとって少しずつでも、ここが“帰る場所”だと感じられる時間につながるなら、それで十分だ。
私はまた、パソコンのモニターに視線を戻した。
指先が文字を打つたびに、心の中に小さな灯りがひとつずつ、ともっていくような気がした。
第一章 完