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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第十章 「ありがとう」

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第八話 もう、大丈夫

夕食が終わり、食器をワゴンに乗せていると、伸江さんの息子さんがフロアにやってきた。何やら申し訳なさそうな顔をしている。


「あのー、今日はもう遅い時間なので、明日出直すつもりだったのですが……もう少し様子を見ていたいので姉と一緒にまだここにいていいでしょうか?」


森田さんに視線を移すと大きく頷いた。私は息子さんに向き直り笑顔で答える。


「大丈夫ですよ。お姉様も心強いと思います。夜勤のスタッフにも伝えておきますね」


その言葉に息子さんはホッとした表情を浮かべ、足早に部屋へ戻って行った。



利用者さんを部屋へ送り必要な介助をひと通り終わらせて時計を見ると、いつの間にか6時を過ぎていた。


「ゴンちゃん、もうあがっていいよ」


夜勤の山野さんにそう言われたが、やっぱり伸江さんが気になってもう少しだけ残りたい気持ちがあった。


森田さんはそんな私を察したようだ。


「気になるのはわかるけど、こればっかりはわからないからね」


「そうですね……わかりました。じゃあ、もう一度顔を見てから帰ります」


部屋の前でひとつ深呼吸をしてから中に入ると、伸江さんは変わらず浅い呼吸をしていた。声をかけてみたけれどもう目は開けてくれない。


しんみりした雰囲気ではないものの、さすがに娘さんたちは心配そうに見守っている。それでも部屋にはどこか穏やかで温かい空気が流れていた。


もう少しそばにいてあげたいな……と思いつつも明日も仕事だしそういつまでもいるわけにはいかない。


「すみません。私今日はこれで帰りますがまた明日来ますので」


そう挨拶をすると、わざわざ家族全員が立ち上がり頭を下げてくれた。


「本当にありがとうございました。またよろしくお願いします」


一礼し背を向けて部屋を出ようとすると、息子さんが少し不安げに口を開いた。


「あの……」


何か聞かれるのかな。答えにくい質問じゃなければいいけど……。そう思い少し身構える。


「はい、なんでしょう?」


「実は……ホテルで食べようと思って弁当を買ってきたのですが、ここで食べても大丈夫でしょうか?」


肩の力が少し抜けた私は思わずクスッと笑ってしまった。


「ぜひそうしてください。しっかり食べておかないとお母様も心配しますからね」


そう答えると息子さんは明るい顔になった。


「ありがとうございます! そうですよね。心配して起き上がってくるかもしれませんよね!」


「“あなたたち、ちゃんとごはん食べてるの!?”ってね」


娘さんがすかさず言葉を重ねると、また小さな笑い声が部屋に広がった。


大丈夫──ちゃんとここに家族の時間は流れている。


その笑いを背に、私は静かに部屋をあとにした。



「じゃあ、帰りますね」


「お疲れ様。気をつけて帰ってよ」


今日の夜勤は山野さんだ。もし何かあっても適切に対応してくれるだろうから頼もしい。


「ゴンちゃん、今日は疲れたでしょう。ゆっくり寝てね。また明日よろしく」


そう言う森田さんも疲れているだろう。今日は遅番で8時までの勤務だが、状況によっては遅くまで残るかもしれない。リーダーという立場もあるけれど責任感の強い人だから。



1階の事務所には前田さんがひとりパソコンに向かって座っていた。


「お疲れ様。今日は遅いですね。あ……新庄さん、どうですか?」


「うん、今日明日がヤマみたいでね」


「そうですか。あとで俺も様子を見に行きますね」


「私も気になるけど、とりあえず今日は帰るね」


帰ると言いながらもそのまま伸江さんや家族さんの様子を話しているうちに、気がつくと7時を回っていた。


「あ、本当に帰らなきゃ。じゃあお先に」


「お疲れ様でした。また明日」


事務所を出て更衣室で着替えながらも頭の中は伸江さんのことが離れない。


明日は少し早めに出勤しようか──そんなことを考えていると、突然ドアを叩く音が響いた。


「権田さん! まだそこにいますか!?」


いつも冷静な前田さんにしては明らかに慌てている声だった。


「いるよー! ちょっと待って!」


急いで履きかけのジーンズを引き上げドアを開けた瞬間、前田さんが早口で言った。


「新庄さん、そろそろかもって! 今森田さんから内線があって、もし権田さんがまだ帰っていないなら──」


最後まで聞かずに私は2階へ駆け出した。



2階に上がるとそこはしんと静まり返っていた。そのまま伸江さんの部屋へ向かう。


中へ入ると森田さんと山野さんが私の顔を見て無言で頷いた。


伸江さんは目を開けている。短く浅い呼吸を繰り返し、少し苦しそうだ。その周りを家族全員が囲み、


「お母さん!」


「おばあちゃん!」


と涙声で呼びかけている。


森田さんが私にそっと近づき耳打ちした。


「急に呼吸が変わったって娘さんが言いに来てくれて。チアノーゼも強くなってる」


チアノーゼ。体の中の酸素が足りなくなると唇や指先が青紫色に変わる。血の巡りがもう十分ではないというサインだ。


昨日から足先に出ていたその色は、帰り際に確認した時にはほかの箇所にも広がっていた。


母の時もそうだった。布団をめくり、看護師さんや医師が静かに確認していた姿を思い出す。



「ああっ!」


娘さんが突然大きな声を上げた。伸江さんは目を閉じている。呼吸は……止まっていた。


「お母さん!!」


娘さんたちが口々に呼びかける。すると伸江さんは薄く目を開けた。弱いながらもまた呼吸が始まる。


張りつめていた空気がふっと緩んだ。けれどそれも長くは続かない。伸江さんは再び目を閉じ静かになった。


「お母さん!」


今度は呼びかけても目を開けない。……とうとう──そう思った瞬間、


「お義母さん!!」


少し下がって見守っていたお嫁さんが叫んだ。


その声に、はっとしたように伸江さんが再び目を開ける。今度はしっかりと。


そして、一人ひとりの顔を確かめるようにゆっくりと目を動かした。心なしか笑っているように見える──いや、確かに口元がゆるんでいる。


「私たちの声では目を開けなかったのに、優子さんの声は届いたみたい」


娘さんが泣き笑いの顔でお嫁さんを見る。


「優子が怖いんだよ。きっと」


息子さんも涙を溜めながら、からかうように言った。


お嫁さんが泣きながらそばに寄る。


「お義母さん、ありがとう……」


お孫さんたちも涙で顔はくしゃくしゃだ。


そして娘さんは伸江さんの手を握り、優しく声をかけた。


「お母さん、ありがとう。もう、大丈夫よ……」


その言葉を受け取るように、伸江さんはそっと微笑んだまま静かに目を閉じた──。



すすり泣く声がしばらく続く。誰も大声では泣いていない。穏やかに眠る伸江さんのそばで静かに時を過ごしている──そんな感じがした。


ここブルースターで働き始めてから、私は何人かの利用者さんを見送った。でも、最期の時に立ち会ったことはこれまでなかった。だからかもしれない。別れに目を潤ませることはあっても涙をこぼすことはなかった。


だけど伸江さんの最後の微笑みを見た瞬間、母のあの時が重なり私は耐えられなかった。本当は大声で泣き叫びたい。でも静かに見送っている家族さんの前でそれはできない。溢れそうな涙をぐっと堪えた。


そんな私に娘さんがそっと近づき、私の手を両手で包んでくれた。


「本当に……ありがとうございました……最後まで……本当に……」


その言葉で、もう限界だった。大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちる。私は無言で泣いた──。


涙の向こうに、伸江さんの静かな笑顔が浮かぶ。


「もう、大丈夫。泣いてもいいよ」


そう言ってくれている気がした。


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