第六話 最後の笑顔
父が来てくれることを願いながら、私は母の手を握ることしかできなかった。
呼吸に合わせて曇る酸素マスク。肩がかすかに上下している。目は天井を向いているけれど、何も映していないようだ。
「お母さん、聞こえる?」
母は顔を向けようとするが、その力は残っていない。それでも目だけは動かし私の顔を見る。
「もうすぐお父さん来るからね」
声は届いているようで、母は小さく頷いた。
私は笑顔で話しかけ続けるが、目からは涙がこぼれて止まらない。
「美加ちゃん!」
声とともにドアが開き、叔母が駆け込んできた。
「おばちゃん……お父さん、まだ来ないの……」
「うん、大丈夫。来るから。きっと来るから」
叔母がそう言って私の肩にそっと手をかけた時、ノックが──。
思わず椅子から立ち上がったが……入って来たのは医師だった。
医師は布団をめくり、色の変わった手足を確かめ、浅くなった呼吸を見届けたあと、小さく「うん」と言って私たちに向き直った。
「そばにいてあげてください。声をかけてあげて」
その意味はわかったし、もう否定もできない。抗う気もなかった。最期の別れを迎える覚悟はすでにできていた。
「お母さん……」
母の手を握り、呼びかけたその時──。
ガタン!
ドアに何かがぶつかった大きな音。振り返ると、そこには……車椅子に座った父の姿があった。
「すみません、ぶつけちゃって」
後ろで夫が頭を下げている。車椅子を押すことに慣れていないうえ、急いでいたから派手にぶつけてしまったようだ。
その時、母がわずかに動いた。物音に反応し、顔の向きを変えている。ドアの方へ。
「母さん!」
父の声で、さっきまで細くしか開いていなかった母の目が、大きく開いた。
急いで父を母の近くに寄せる。母が……笑った。
「母さん、ごめんな……」
初めて聞いた、父の謝る言葉。
そして母は、小さく首を振った。声は出ていないが、何かを伝えようとしている。
「お母さん、なに?」
口の動きをよく見ると、たしかに言っていた──「ありがとう」と。
「お父さん! お母さん、ありがとうって」
そう伝えると、父は泣いた。初めて見た父の涙。
「母さん、ありがとう。ありがとう。ありがとう……」
父は母の手を握りしめ、何度も何度も繰り返した。母は笑顔で頷いている。
「お母さん、本当にありがとう……」
母は父を見て、私を見て、そして──笑顔のまま眠った。
⸻
泣き崩れる私の肩を抱きしめた父。
「……母さん、笑ってるな」
「うん……」
「……会えてよかった」
「うん……来てくれてよかった……」
「うん……」
父が長く母に会おうとしなかった理由は今でもわからない。だけど、母の笑顔を思い出すと間違いなく母はその瞬間も、そしてこれまでも幸せだったんだと思えた。
それでも悲しみは止まらない。しばらく立ち上がれず母のそばを離れることができなかった。
「よく頑張りましたね!」
ふと顔を上げるといつも母のそばにいてくれた看護師さんだ。
しんみりした空気を変えるような明るい声だ。
「ほんと、お母さんも頑張ったけど美加さんもよく頑張った!」
よく見ると、目に涙を溜めている。
私は思わず立ち上がり、彼女の肩に顔をうずめて、また、声をあげて泣いた。緊張が一気に解けたようだ。
そんな私の背中に腕を回して優しく包むように抱きしめてくれた。
静かな時間が流れたあと、ほかの看護師さんやスタッフさんたちが、ひとり、またひとりと、母に別れを言いに来てくれた。みんな目に涙を浮かべながらも、穏やかな笑顔で母に語りかけていた。
「今からお母さんをきれいにするから、ちょっと外で待っててね」
看護師さんたちは、エンゼルケアと呼ばれる亡くなった直後のケアを、母に施してくれた。
体をきれいに拭き、髪を整え、服を着替えさせ、生前の母の姿に近づけていく──亡くなったあとも、その人の尊厳を大切にし、家族が穏やかな気持ちで最後の別れができるようにするためのケアだ。
「美加さん、入って」
そう言われて中に入ると、母はまるでまだ生きているかのように横になっていた。
「美加さん、塗ってあげて」
私は口紅を渡された。母の唇にそっと紅をのせながらつぶやく。
「お母さん、今からデパートにでも行くみたい」
普段から化粧はほとんどしていなかった母にそう話しかけると、看護師さんはクスクスと笑った。
「本当にありがとうございます」
心からお礼を言った。
「こちらこそありがとうございます。お母さんや美加さんと過ごした貴重な時間、これからも大切にします」
その言葉で、枯れたと思っていた涙がまた溢れ出た。こんな素敵な人たちと母との最後の時間を過ごすことができて本当によかった、と心から思った。
そして、尊敬の気持ちしかなかったはずのその人たちに、いつの間にか憧れの気持ちが芽生えていた。
私もこんなふうに人に関われたら──そう思い始めた。
介護職を選んだ理由を舞ちゃんに聞かれた時、家の近くに事務の仕事がなくて、介護職は募集が多かったから、と私は答えた。
それは嘘ではなかったけれど、本当の理由のすべてでもなかった。事務職を希望していたのは、自分にはそれしかできないと思っていたからだ。
誰かの人生や命に向き合う仕事に就くことへの不安は大きかった。それでも、あの時に感じた気持ちを確かめてみたいと思った。
ホスピスで出会った看護師さんに憧れたけれど、看護師になりたかったわけじゃない。介護職を選んだけれど、条件だけで選んだわけでもない。
悲しみに暮れる私たちを包み、母の尊厳を最後まで守り、笑顔で送り出していた、あの“在り方”──そのことに心が動いてしまったのだ。
だから、私はこの仕事を選んだ。




