第三話 あの時の私
「ゼリー、おいしかったですか?」
伸江さんは、ほんの少し口元をゆるめた。以前のような活気はないが、今日は比較的表情が明るい。おやつのゼリーも口を開けるタイミングが合って、残さずきれいに食べ終えた。
「早く元気になってね」
そう声をかけ席を立った瞬間、背後でドアが開いた。
「あ、こんにちは。いつもお世話になっています」
振り返ると、伸江さんの娘さんが立っていた。
娘さんは市内に住んでいて、以前は週に1度ほどの面会だった。それが状況が変わってからは、回数が増えている。やはり心配なのだろう。
「お母様、今日は調子がよいみたいでゼリー全部召し上がりましたよ」
そう伝えると、娘さんは深々と頭を下げた。
「本当にいつもありがとうございます。お母さん、よかったね」
伸江さんに微笑みを向けた娘さんは、すぐに視線を私へ戻した。
「先ほど看護師さんから電話をいただきまして……」
あ、看取りのことだな。それで余計に心配になってすぐに会いに来たのだろう。
「あのまま元気でいてくれたら、それに越したことはなかったんですが……そうもいかないみたいですね」
娘さんは一瞬だけ表情を曇らせ、それからどこか覚悟をにじませた笑みを浮かべた。
「皆さんが本当によくしてくださっているので……ここでなら少しでも母らしさを残したまま穏やかに過ごせるんじゃないかなって思っています」
娘さんは気さくで冗談も通じ、落ち着いた話し方の中に前向きな明るさがある人だ。話していると、ふとお茶目なところが垣間見えて伸江さんに似ていると感じる。
看取りと聞いて本当はきっと悲しいはずだ。それでも娘さんの声は沈まず、現状から目を逸らしていない強さがあった。
「夕食まで時間がありますから、どうぞゆっくりお過ごしください」
「ありがとうございます」
娘さんの笑顔と落ち着いた態度に、介助する側として救われる思いがする。私は一礼して部屋を出た。
看取りの話が出た時の家族さんの反応は本当にさまざまだ。長谷さんの息子さんのように淡々としている人がいれば、伸江さんの娘さんのように現実を受け止めている人もいる。
そして──別れを前にして、頭ではわかっていながらあきらめきれない思いを抱えたままの人もいる。
あの時の私のように。
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がんだった母は幸い強い痛みに苦しむことはなかった。ただ、免疫力や体力は少しずつ落ちていき、呼吸は目に見えて苦しそうになっていった。
抗がん剤治療を終え、酸素チューブをつけて在宅で過ごす日々。そんなある日、主治医から病院に併設されているホスピスへの入所の話が出た。
ホスピスは病気を治す場所ではない。残された時間をできるだけ穏やかに過ごすための場所。痛みや苦しさを和らげ、最期までその人らしくいられるよう支えてくれる。
母には最期は穏やかに過ごしてほしい。それは、ずっと変わらない思いだった。それでもその時の私は、この話をすぐに受け入れることはできなかった。母にはまだ早い場所だ──そんな気がしていた。
「空きが出た時点でその時の状態を見て判断すればいいと思います。とりあえず申し込んでおいてはどうですか」
そのホスピスは入所希望者が多く、申し込みから入所まで数か月、長ければ半年ほどかかるという。主治医にそう言われ、「まだ先の話だけど、念のため」という思いで私はうなずいた。
それから3か月ほどしてその時が来た。空きが出たと連絡があったのだ。
父の認知症が進み家の中が落ち着かなくなり始めた頃でもあり、迷った末に私は入所を決めた。
ホスピスなら母は苦しまなくてすむ。安心して任せられる場所だ。そう言い聞かせながらも、別れはまだ先だと思おうとしている自分もいた。
延命治療はしない。それは母とも話していたことだ。それでも、状態が安定したまま穏やかな日々が長く続くのではないか。もしかしたら病状もよくなるのではないか──そんな思いを、どうしても手放せなかった。
今になって思う。私は現実を見ようとしながら、同時に母との別れから目を逸らし続けていたのだと──。
廊下を歩きながらそんなことを考えていて、ふと気がつく。私はまた暗い顔をしているんじゃないか。
いかん、いかん。そう思いながら両手でペチペチと自分の頬を叩いていると舞ちゃんが声をかけてきた。
「誰かに怒られたのですか?」
心配そうな顔をしている。
「え? なんで?」
「顔、叩いていたから……」
「舞ちゃんは、人に怒られたら自分の顔を叩くの?」
「え? 叩きません?」
思わず吹き出してしまった。舞ちゃんの理屈はよくわからないけれど、おかげで表情も気持ちも少し明るくなった。ありがとうね。
⸻
1週間後、伸江さんの看取り対応が決まった。
いざという時の動きは変わるにしても、私たちがやることはこれまでと同じだ。伸江さんが少しでも穏やかに過ごせるようにそばで支える。それだけだ──。
そんなある朝。いつものように更衣を済ませ2階フロアに上がると、なにやら空気が落ち着かない。人の動きが多く、どこかバタバタしている。
カウンターで橋本さんが電話で誰かと話していた。受話器を置いたタイミングを見計らって声をかける。
「なにかありました?」
「ああ、ちょっとね……長谷さんが……」
──えっ。
息を飲んだ。一瞬で最悪の想像がよぎった私の表情を見て、橋本さんは慌てて首を振った。
「違う違う。夜中にベッドから立とうとして転んじゃったの。で、救急車を呼んだのよ」
長谷さんはもともと立位が不安定で、ここ最近は自力で立つことはほとんどできなかった。万が一を考えて、ベッドは床すれすれまで下げていた。落下を防ぐためでもあり、ひとりで立ち上がれないようにするためでもある。
それでも──どうやら這うようにしてベッドを降り、柵につかまって立とうとしたらしい。その拍子にバランスを崩して床に倒れ、頭を打ってしまったという。
「で、検査の結果は異常なし。明け方には戻ってきて今は落ち着いているんだけど……」
橋本さんはそう言って言葉を濁した。困ったような表情がその理由を物語っている。
「今、息子さんに電話で説明したらね……こっぴどく怒鳴られて」
「事故を防げなかったこと、ですか?」
私がそう聞くと、橋本さんは小さく首を振った。
「違うの。救急車を呼んだこと。看取りの契約をしたのに、どうして呼んだんだって……」
ああ、そうきたか──何も言えず、視線だけを落とした。




