第二話 反省
重い足取りでフロアに戻ると、山野さんが声をかけてきた。
「あ、高山さんの軟膏もらってきてくれたの? ありがとう……あれ? 何かあった? 暗い顔して」
私はすぐ顔に出てしまう。気をつけないと。そう思いながら表情を整える。そして山野さんにそっと近づき、伸江さんが看取り対応になるかもしれないことを伝えた。
「そうか……。あの様子じゃ心配だもんね。長谷さんに続いてだね」
「うん。2か月ぐらい前だっけ? 長谷さん看取りになったの」
山野さんは少し考えるように間を置いてから頷いた。
「うん。そうだね。息子さんがなかなか来てくれなくて困ったけどね」
看取り対応──病状の回復が見込めず、最期の時間が近づいている人に対して無理な延命はせず、その人が穏やかに過ごせるように支えていくことだ。特別なことをするというより、できるだけ苦痛を減らし、いつもの生活を続けながら自然な経過を見守っていく。
そのためにはまず、IC──インフォームド・コンセントを行う。これからどんな状態が考えられるのか、どこまでの医療や介助を望むのか。医師や看護師、ケアマネジャーが同席し、本人や家族さんにきちんと説明したうえで同意を得る必要がある。
でも、長谷さんの場合はそれがとにかく難航した。息子さんに電話をかけてもなかなかつながらない。ようやく話ができたと思っても「また改めて」と言われるばかりで、ICの日程が決まらない。
看取りに進むにも、その最初の一歩が踏み出せず、私たちは何度も足踏みすることになった。
「連絡して1か月くらい経ってからだよね。息子さんが来て、ようやく看取りの契約ができたの」
「うん。そのあいだ、ずっと落ち着かなかったのよね」
看取りの同意や契約を結んでいるかどうかで日々の介助の内容が大きく変わるわけじゃない。けれど、容態が急に変わった時に私たちがどう動くかは違ってくる。救急車を呼ぶかどうか、その判断も含めて。
そして、亡くなった時の対応も変わってくる。契約がある場合は医師に連絡して死亡確認を行い、死亡診断書が作成される。この場合、手続きは比較的スムーズだ。
一方、契約のないまま亡くなった場合は、たとえ病気や老衰による自然な経過であっても、警察への連絡が必要になることが多い。検視や死体検案が行われ、それまでの経過や介助内容を細かく求められることもある。状況によっては、介護事故として扱われる可能性も否定できない。
だからこそ私たちは何度も連絡を入れ、息子さんが来てくれる日を待っていた。
「そういえば……」
ふと思い出して言った。
「やっと来てくれたのはよかったんだけど、その日、ちょっとびっくりしたことがあって」
「なに?」
「息子さん、施設に来てもいつも長谷さんには会わずに帰ってたでしょ? それなのにその日は部屋まで来たのよ」
「へえ、珍しいね」
「でね、長谷さん、ベッドに横になってたんだけど、“座らせてください”って息子さんに言われて。まあそこまではいいとして」
私は一瞬間を置いた。
「車椅子に座ってもらったら今度はいきなり写真を撮り始めて」
「写真?」
「うん、長谷さんの。でね、一言、“葬式用の写真が必要だから”って……ちょっとひどくない?」
私は山野さんに同意を求めるように身を乗り出した。
「ああ……」
少し考えるような表情を浮かべたあと、山野さんは小さく息を吐いた。
「先にやることリストが出ちゃった感じだね」
「本当はさ、もっとこう……」
思わず声が強くなる。
「親の顔を見て、声をかけて、気持ちが動く時間があってもいい場面だよね?」
話しているうちにだんだん腹が立ってきてしまった。そんな私に、山野さんは静かに言った。
「まあ、親子の関係って他人にはわからないところがあるからね」
その言い方にはどこか重みがあって、さっきまで高ぶっていた私の中で何かが一度止まった。
そして、山野さんは少し間を置いてから続けた。
「長谷さん、かなり暴君だったらしいからね。奥さんにも息子さんにも、昔はよく手をあげてたって。……いろいろ思うところもあるんじゃない?」
それを聞いて私は黙ってしまった。考えてみれば私の父も厳しく、いい感情ばかり持っていたわけではなかった。
認知症になった父から、病気の母のことを「どうでもいい」と言われて、思わずカッとなったこともある。
今でこそ父は穏やかになったけれど、もし、あのままだったとしたら──私も、長谷さんの息子さんと同じような行動を取っていたかもしれない。
「……そうだね。ちょっと反省」
しゅんとした私に山野さんは、
「ほら、また暗い顔になって。ほんとゴンちゃんはすぐ顔に出るなぁ」
と笑った。
家族さんと利用者さんの関係については、ある程度知っておく必要はある。けれど、それに踏み込みすぎることが必ずしも正解とは限らない。
今はただ、看取り対応となった長谷さんが穏やかな時間を過ごせるよう、私にできることを積み重ねていこう。そう思った。
⸻
おやつの時間が近づき、フロアに少しずつ利用者さんが集まってきた。
カウンター近くのテーブル席では、磯野さんが楽しげに伸江さんに話しかけている──けれど、そこに伸江さんの姿はない。
元気な頃は磯野さんの向かいにいつも伸江さんが座っていて、2人はセットでフロアにいる私たちの目に入っていた。それが当たり前だった。
けれど伸江さんは、体力が落ちてからはベッドで過ごすことが多くなった。食事の時間だけはなるべくフロアで介助するようにしているが、それでも以前のような活気はなく、うつむき加減で食事も進まない。
立ち上がろうとしたり、チョコちゃんに話しかけたり──何かと目に留まる存在だったのに、そうしたこともなくなった。フロアの一角がぽっかり静かになり、なんとも言えず寂しい。
「伸江さんのおやつ、行ってくるね」
食欲が落ちたとはいえ、少しでも口にしてもらえたらと思い、口当たりのよいゼリーを用意して伸江さんの部屋へ向かった。
「伸江さーん。ゼリー食べましょう」
明るく声をかけると、笑顔を見せた。ベッドの上で体を起こし、少しずつ口に運ぶと、
「これ、冷たいわね」
と小さな声でつぶやいた。
「うん。ゼリーですからね」
すると、伸江さんは壁際の棚を指さした。
「おはぎ、そこにあったと思うけど」
「……おはぎかぁ。見当たらないですねぇ。今度、娘さんに持ってきてもらいましょう」
「チョコの散歩はどうなった?」
──話は噛み合っていないけれど、これはいつものことだ。伸江さんらしい会話。チョコちゃんの名前も久しぶりに聞いて、少しほっとした。
伸江さんは、まだ伸江さんだ──今はそれで十分だと思えた。




