第一話 雨と昔ばなし
「今日も雨ですねー」
食器を片付けながら舞ちゃんが言った。
天気の良い日は午後の日差しが眩しいくらいなのに、ここ数日は広い窓のカーテンを全開にしてもなんとなく薄暗い。
「今年の梅雨入りは早かったから、明けるのも早いのかな」
まだ6月になったばかりだというのに、今年はカレンダーをめくる前から梅雨に入っていた。
「こう雨が続くと、気分も滅入りますよねー!」
そう言う舞ちゃんの声は相変わらず明るい。
「全然滅入ってる感じしないけどね」
下げた食器をワゴンに載せながら返すと、
「えー? 滅入ってますよー!」
満面の笑みで言われて思わず私も笑ってしまう。
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「──さてと。ワゴン、下に下ろしてきますね」
そう言ってエレベーターに向かう舞ちゃんの背中に私は声をかけた。
「あ、帰りにナース室に寄って高山さんの軟膏もらってきてくれる? もう残り少ないから──」
そこまで言いかけたところで、舞ちゃんの表情からさっきまでの明るさがすっと消えた。
え? どうしたの? それこそなんだか滅入ってるみたいだけど。
「……私、今、出禁なんですよ」
はい?
「ナース室に行けないんですー! 今日、三上さんいるでしょう?」
「何かあったの?」
舞ちゃんは一瞬ためらってから小さく息を吸った。
「実は……このあいだ、レクの時間にみんなで“日本昔ばなし”観たんですよ。その時、三上さんもフロアにいて。で、何話目かで“姥捨山”の話になったんです」
女帝三上──。嫌な予感がする。
「冒頭の語りでね、“この村では60歳になると山に捨てられる”っていうくだりがあって。そこで三上さんが、“やだ。60歳? 私、超えてるじゃない!”って笑いながら言ったんです。それで私もつい乗っかって、“じゃあ三上さんも捨てられちゃいますねー”って言っちゃって……」
舞ちゃんは肩をすくめた。
「そしたら笑ってた顔が、般若になって……」
あー。やっちまったな。
「そりゃ、行けないね。ナース室」
「でしょ? でも三上さん、最初は笑ってたから、冗談通じると思ったんですけど……」
「いや、人を見て言わないと。三上さんは自分で言うのはよくても、人に言われると傷つく人なのよ」
「大人って、わからないなあ」
──いや舞ちゃん。あなたも十分、大人なんだけど。
「とりあえず、ワゴンは私が下げて軟膏ももらいに行くよ。あの人いつもあんな感じだから、あんまり気にしなくていいよ」
「ありがとうございます〜」
舞ちゃんは今にも泣き出しそうな顔で頭を下げた。
やれやれ、である。
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「姥捨山ねぇ……」
ワゴンをエレベーターから下ろしながら思わず口にする。
あの話は結局、親を大事にしようという教訓なんだろうけど、たまたまとはいえ老人ホームで流す話ではなかったかもね──と、ひとりで苦笑いする。
そしてふと、入居したばかりの長谷さんの言葉を思い出した。
「こんな姥捨山みたいなところに連れてきやがって!」
──長谷勝さん。86歳。施設に入った頃の父と時々重なって見える人。入居した当初は相手を選ばず食ってかかり、現場はなかなか大変だった。
その後は認知症も進み、入浴時に暴れることはあったが、環境に慣れるにつれてそれ以外は次第に落ち着いていった。
入居前は奥さんと2人で暮らしていたが先立たれ、脳梗塞を発症し認知症状も出た。そのためひとり暮らしは難しくなり、息子さんが施設に連れてきたらしい。
あとになってわかったことだけど、本人には何も知らされず半ば騙したような形での入居だった。
永田さんのように自分の意思で施設に入居した人もいるけれど、大抵は家族さんの決断で入居する。それでもできる限り本人の理解を得るように話をし、決断するまでには相当悩むはずだ。私もそうだった。
でも長谷さんの場合は、少し違っていた。当時はまだ本人と意思疎通が可能だったにもかかわらず、息子さんからはまったく説明がされていなかったそうだ。
そして入居後は、あの北原さんの家族さん同様、息子さんはほとんど、いや、まったくと言っていいほど面会に来ない。書面上の手続きなどでどうしてもという時に来ても、長谷さんに会わずに帰ることもある。
──いきなり施設に連れてこられ、自分の立場を理解した時に口にした
“姥捨山みたいなところ”。
ここで働いている私たちや、ここでの生活に満足している利用者さんからしたらずいぶんひどい言葉だ。でもその気持ちがまったくわからないわけでもない。……悲しいけれど。
そんなことを考えながらナース室へ向かう。女帝のご機嫌はどうかな、と少しドキドキしながらノックをして中に入る。
いた。三上ナースが睨むように私を見る。
「高山さんの足に塗る軟膏、もらえますか」
そう言うと何も言わずに薬棚から取り出し私の手に置いた。
機嫌、悪いなぁ。舞ちゃん来なくて正解だったな。
「ありがとうございました」
そう言ってドアノブに手をかけたその時。
「長谷さん、どう? ごはん食べた?」
部屋にいた大森ナースが柔らかい声で話しかけてきた。
たった今、長谷さんのことを考えていたから少しびっくりしてしまった。けれど大森ナースの口から長谷さんの名前が出ること自体は不思議ではない。
長谷さんは3か月ほど前から寝たきりの状態になり、最近は食事量もめっきり減っているからだ。
「昼食は介助して5割ほどでしょうか。もう少し食べられそうだったんですけど、途中でむせ込んだのでそこでやめました」
すると女帝が横から口を挟んだ。
「無理はダメよ! 無理は! 誤嚥したら大変でしょ!」
いや、だから途中でやめたんじゃないの……。と言いたかったけど、これ以上女帝の機嫌を損ねたくはなかった私は喉まで出かかった言葉をぐっと奥へ押し戻した。
誤嚥──うまく飲み込めず食道ではなく気管に入ってしまうことだ。それが引き金になって肺炎を起こす高齢者は決して少なくない。
「伸江さんの様子はどうかしら?」
女帝の横やりを受け流すように大森ナースがこちらを向いて聞いてきた。
「ああ、伸江さん。今日も傾眠が強くてほとんど食べていません。1、2割といったところでしょうか」
「そう……。そろそろ、考えないといけないかもしれないわね。また、あとで様子を見に行くわ」
「……はい。お願いします」
私は小さく頭を下げナース室をあとにした。
伸江さんは少し前までは変わらず元気で、フロアで“チョコちゃん”と戯れていた。だが先月半ば、誤嚥性肺炎を起こして入院し、治療を終えて戻ってきても体力は戻らないままだった。
大森ナースの言った、「そろそろ考えないといけない」という言葉が胸の奥に残る。
きっと──“看取り”を考える時期だ、ということなのだろう。
私は重たい気分のままフロアへ戻った。……まるで今日の空模様みたいだ。




