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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第九章 情けない

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第六話 決めつける前に

母は自分ががんだと知った時、それをすぐに受け入れた。きっと悲しくもあり怖くもあったはずだ。それでも取り乱していたのは私のほうで、母は驚くほど落ち着いて見えた。


卵巣がん、ステージ4。その言葉を聞いた瞬間から、私の頭は過去ばかりをさまよった。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのだろう。あの時、ああしていれば──後悔は次から次へと浮かんできた。


けれど母は、私が過去に縛られているあいだも、今の自分にできることだけに目を向けていたように思う。


できることはすべてやった。手術を受け、抗がん剤治療にも耐えた。それでも日を追うごとに体力は落ちていったが、母は嘆くよりもその現実を静かに受け入れていた。


でも永田さんは違う。もちろん状況は同じではない。母は病気が原因で、ある日を境に急にできなくなった。一方で永田さんは、年齢や認知症状のせいで、できないことが少しずつ確実に増えている。


それでも──と思う。母は前向きだったと言ってしまえばそれまでだけれど、私の目にはできなくなった自分を受け入れる力があったように映った。


永田さんはまだそこにたどり着けていない。できなくなっていく自分を、頭ではわかっていても気持ちが追いつかないのだ。


森田さんは永田さんに話をすると言っていた。けれど、もし話を切り出したら永田さんは、“情けない自分”を突きつけられた気がして、かえって反発してしまうのではないだろうか──。


そんなことを考えながらフロアに目を向ける。永田さんはいつもと変わらない様子で隣の席の人と話をしていた。


その姿を見ながら、ふと母と比べてしまう自分に少し引っかかるものを覚えた。それが何なのかははっきりしない。


よくわからない違和感を抱えたまま、私は配膳に取りかかった。



母のことや永田さんのことをあれこれ考えていたけれど、夕食が始まると伸江さんは味噌汁をひっくり返し、磯野さんは車椅子から立ち上がり、大迫さんは隣の人と口論を始めた。フロアは一気にバタバタしだして、さっきまでの考えごとはあっという間に頭の外に追いやられた。


「あー、疲れたぁ……」


下膳を終え、ほとんどの利用者さんが部屋に戻り、ようやく一段落したところで思わず本音が漏れた。


「お疲れ様。ほんと、大騒ぎだったわね」


森田さんが苦笑いしながら声をかけてくる。


「でも、なんとか落ち着いてよかったです」


そう言って時計を見ると、もう6時を回っていた。帰り支度を始めようとしたその時、森田さんが話を切り出した。


「今ね、ちょっと話をしたのよ。永田さんと」


その名前を聞いた瞬間、さっきまで遠ざかっていた考えが一気に戻ってきた。


「何か困っていることないかって聞いてみたの。そしたらね……“ない”って」


それを聞いて、そりゃあそうだろうと思った。だってあの人は──。


「それでね、トイレは大丈夫? って聞いたのよ」


……えっ。


そこまで踏み込んだの? あの永田さんに? ──私は一瞬、返す言葉が見つからなかった。


「そしたらね、”ああ、そうなのよ。最近失敗が多くて。どうしたものかしらね”って」


……えっ。


思わず森田さんの顔を見返していた。そんな私に、森田さんは変わらぬ落ち着いた表情で言葉を続けた。


「永田さんの性格を考えるとね、真正面から向かっても無駄かもしれないって気持ちも正直あったわ」


森田さんはそう前置きして、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「でも、このまま見過ごすわけにもいかないでしょう。下着の話は、いつかはしないといけなかったと思うの」


たしかに、と私は心の中でうなずいた。


「家族さんに先に伝えて、本人に言ってもらうことも考えたのよ。でもね……それだと、告げ口みたいになって、かえってプライドを傷つけるんじゃないかと思って」


森田さんはそこで、ふっと遠くを見るような目をした。


「前に勤めていたところでね、似たような状況の利用者さんがいたの。永田さんとはタイプが違って、とても穏やかで、物腰も柔らかくて、私たちにも協力的な人だったわ」


私は黙って続きを待った。


「その人も、ある時から永田さんと同じような状態になってね。私たちは“この人なら話せばわかってくれる”って思って、ストレートに紙のパンツを勧めたの」


森田さんは、ほんの少しだけ口元を引き結んだ。


「そしたら、頑なに拒否されて。それ以来、私たちを避けるようになって、話も聞いてくれなくなった」


……そんなことが。


「結局、家族さんから説得してもらって紙パンツを使うことになったけど、しばらくはスタッフに対して不信感を持ったままだったわ。それこそプライドを傷つけてしまったと思うの」


森田さんは私に視線を戻して、静かに言った。


「だからね、“この人ならわかってくれる”とか、“この人は絶対嫌がる”とか、こちらで決めつける前に、まず本人がどう思っているのかを知ることが大事だと思ったの」


排泄の問題がどれほどデリケートか。清潔を保つ必要がある一方で、心を傷つける危うさもある。


「まあ、それでも拒否した可能性もあるから、その時はまた対応を考えないといけなかったけどね」


そして肩をすくめて、少し微笑みながら、


「難しいよね」


と、締めくくるように言った。


──その言葉が、胸の奥に静かに残った。


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