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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第九章 情けない

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第四話 うちの親に限って

215号室の橘初子さんは85歳。歩行はやや不安定で、移動には歩行器を使っている。認知症状はあるものの、身の回りのことは基本的に自分でできる。


ただ、ひとつだけ問題がある──排泄だ。


尿意を感じてトイレに向かうが、便座に座る前に出てしまう。汚れたリハビリパンツは自分で替えており、その都度交換することになる。


以前はパッドを併用していたが、汚れたパッドを便器に流してしまい、トイレを何度も詰まらせた。本人に説明しても理解は難しく、現在はリハビリパンツの着用のみ。その分、使用枚数はどうしても多くなる。


こうした事情はすでに娘さんにも伝えてある。理解してくれていると思っていたが──たぶん、今回のクレームは、このあたりなのだろう。


エレベーターが開き、娘さんが降りてきた。


その表情はすでに戦闘モード。目がわかりやすく吊り上がっている。


「こんにちは」


そう声をかけたが娘さんは挨拶には応えず、いきなり本題に入った。


「あのね、消耗品の請求額が高いので伺いたいんですけど。事務所の人に言ったら、上で聞いてくださいって言われたので」


梶さんの対応が素っ気なかったのか、かなり不機嫌な様子だ。


オムツやリハビリパンツ、パッドといった排泄用品は、在庫管理が煩雑になるため、施設で用意している。使用した分だけを請求する形だ。


娘さんは一歩、ずいっと距離を詰めてきた。そして、私の目の前に請求書を突き出す。


「この内訳、見てくださる? リハビリパンツ、多すぎません? 先月なんて8袋も買ってるでしょ。26枚入りですよね? なんで、こんなに必要なんですか?」


一瞬、言葉を切り、こちらを睨む。


「……もしかして、ほかの人にも回してるんじゃないでしょうね?」


うわ……。よく、そんなことが言えるなぁ。


娘さんの勢いにたじろぎ、私は言葉を失った。その様子を見て、森田さんがすぐに駆け寄ってきた。


森田さんは私の横に立ち、落ち着いた口調で娘さんに向き直る。


「前にもお話ししましたが、お母様はどうしても間に合わないことが多く、その都度、交換が必要になります。そのため使用量が多くなっています」


娘さんの反応を確かめながら、言葉を続ける。


「こちらとしても定期的なトイレ誘導を行い、交換の頻度を減らすよう努めてはいるのですが、なかなか改善に至らないのが現状で……」


「いや、限度があるでしょ?」


言葉を遮るように、娘さんが言った。


「この請求書、見ました? 単純計算で1日7枚ですよ。7枚。これ、トイレに行くたびに替えてるってことですよね」


一瞬、言葉を切り、私たちを見る。


「毎回、間に合ってないってことですか? 年ですから、たまに失敗することはあるでしょうけど。そこまでできないほど、うちの母は情けなくはないはずです」


ああ、出た……。よくある反応だ。


橘さんは尿意を感じる。ちゃんとトイレにも向かう。でも、便座に座る、そのほんの一瞬が間に合わない──ただ、それだけのことなのに。結果だけを見れば、“できていない”になる。


娘さんが見ているのは、“トイレに行こうとしている母”ではなく、“1日に7枚もリハビリパンツを使う母”だった。


いわゆる──“うちの親に限って、そこまで情けないはずがない”というやつだ。


私も自分の親に対して、そう思っていた時期があった。父の認知症を疑う前、私は父の行動の変化を、ただ責めていた気がする。


食事中にポロポロとこぼしたり、トイレを汚したり。そういうことを“だらしない”と決めつけて、気をつけるようにと注意していた。


今までできていたことなんだから、できるはずだ。そんなふうに、勝手に線を引いていたのだ。


今思えばそれは老化でもあり、認知症の始まりだったのかもしれない。それでも当時の私は、自分の親を“情けない存在”として見たくなかったのだと思う。


だから、娘さんの気持ちもわからないわけではない。


森田さんは少し間を置いて、再び口を開いた。


「お母様は、たしかに日常生活のことはほとんどご自身でされています。ですが、少しずつできないことが増えてきているのも事実です。そのあたりのことは、ご理解いただけませんでしょうか」


その言葉に、娘さんは少しだけ表情を緩めた。


「……わかりました」


おお、わかってくれたんだ──そう思ったのも束の間、娘さんは続けて言った。


「では、そちらがきちんと管理しているかはっきりするように、今後は1日の使用枚数を記録しておいてください。それを見て判断しますから」


……やっぱり、疑っている。だめだ、こりゃ。


「承知しました。ご理解いただけるよう、こちらも努力いたします」


森田さんの本心は渋々なのだろうが、それを表情には一切出さず、丁寧に応じた。


あとには場の空気だけが残り、娘さんは橘さんの部屋へと歩いていった。


結局、納得してくれたわけではない。けれど、遅かれ早かれ、娘さんもお母さんの変化に気づくはずだ。それまではこちらも事実をきちんと把握し、伝えることを怠らないようにしなくちゃいけない。


娘さんの後ろ姿を目で追いながら、そう思った。



「まいったね」


苦笑いしながら、森田さんが言った。


「あるあるですよね。自分の親はしっかりしていると思い込むの」


私がそう言うと森田さんは頷き、少し悲しげな表情を浮かべた。


「できていたことが、だんだんできなくなっていくのを認めたくないのは本人だけじゃなくて、家族も同じなのよね。最初はできなくなっていくことを受け入れられなくて、そのうち悲しくなって──」


言葉をいったん切り、森田さんは再び口を開いた。


「でも、それを乗り越えたら本人も家族も、“できなくなったこと”じゃなくて、“まだできること”に目を向けていける。そうでなくちゃいけないもんね」


その通りだと私は深く頷いた。


しっかりしていた永田さんは、最近になって物忘れや排泄がうまくできなくなり、今はそういう自分を受け入れられていない。


トイレを手伝うたびに“情けない”と訴える川原さんは、できないことを認めて、今は悲しい状態だ。


できないことを受け入れるのは、本人にとっても家族にとっても簡単じゃない。それは介護する私たちも同じだ。だからこそ、誰かひとりが正しくあろうとするんじゃなくて、“まだできること”を大事にしていきたい。


それが支えることでもあり、支えられることでもあるのだから──。


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