第三話 受け止めきれない現実
永田さんの異変に気づいてから1週間ほどが過ぎた。あれ以来、特に変わった様子は見られない。けれど、あの時の小さな違和感は胸の奥に残ったままだ。
「今日はいよいよお別れね」
詰所のカウンターに置かれた色紙を眺めながら森田さんが言った。
「そうですね。私たちも寂しいですけど……北原さんはもっとつらいでしょうね」
そう言ってフロアに目を向ける。北原さんと吉井さんはいつもと同じテーブルで並んで座り、楽しそうに話していた。傍から見れば仲のいい夫婦のようだ。
──結婚します。
あの時の言葉がふと頭をよぎる。けれど現実は今日でひと区切りだ。吉井さんは娘さんの都合で別の施設へ転居する。その日が今日だ。
色紙の中央には笑顔の吉井さんの写真。ほかの利用者さんは一緒に写っていない。個人情報保護を考えれば施設としては当然の対応かもしれないけれど──吉井さんはいつも誰かと笑っていたのに、と思うと少し切ない。
北原さんは吉井さんとの別れをきちんと理解している。表情には寂しさがにじみ、無理に笑顔を作っているようにも見えた。
一方で吉井さんはよくわかっていないのだろう。いつもと変わらず穏やかに笑っている。
「結局、北原さんはここに残るんですね」
私の言葉に森田さんが頷く。
「そうね。結婚するって家族に言ってひと悶着あったでしょう。あの時は娘さんも、北原さんを転居させるって息巻いていたけど……」
少し間を置いて、森田さんは続けた。
「吉井さんがここを出ていくと北原さんが知って、それを聞いた家族さんも安心したのかもしれないわね。それ以来、特に何も言ってこないし、面会にもまた来なくなったし」
「……なんだか割り切れないですね」
そう言って私は色紙に目を戻した。変わらない笑顔の吉井さん。その笑顔が今日でこの場所を離れる。そう思うと胸の奥に静かな寂しさが広がった。
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午後になり、吉井さんの娘さんが迎えに来た。エレベーター前にはスタッフが集まり、北原さんも含め何人かの利用者さんが吉井さんを囲む。あちこちから別れの言葉が聞こえた。
「元気でね」
「寂しくなるわ」
「電話、くれよな」
最後にそう言ったのは北原さん。吉井さんは携帯電話を持っていないけれど……まあ、いいか。
そして黙っていた永田さんが口を開いた。
「あなた、このあいだ来たばかりなのにもう出ていくの? 私はここに10年近くいるけど、住みやすくていいのに。もったいないわ」
その言葉に吉井さんはニコッと笑った。
「すぐ帰ってきますから」
やはりよくわかっていないのだろう。娘さんは少し困ったように笑い、
「お世話になりました。みなさんもお元気で」
そう言ってエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まるとフロアは一瞬静かになり、それぞれが部屋へ戻っていった。
「寂しくなるわね」
「はい。“あなた、お子さん何人いるの?”って、もう聞かれないのかと思うと……少し寂しいです」
「……でもゴンちゃん、それって嫌じゃなかった?」
「ああ、私に子どもがいないからですか? たしかに最初は、あまりいい気はしなかったですけど……すぐ慣れました。そのうちお決まりの挨拶みたいなものになって」
「そう」
森田さんはやさしく頷き、それから少し表情を変えて言った。
「やっぱり認知症状があるかもしれないわね。永田さん」
「……ですよね」
先週の出来事が頭に浮かぶ。昼食を食べたことを忘れていたこと、久世ちゃんから聞いた失禁の話。それはすでに森田さんにも伝えていた。
吉井さんを見送ったあと、歩行器を押して部屋へ戻る永田さんの後ろ姿を、私たちは並んで見ながら話を続けた。
「さっき、ここに来て10年近くって言ってましたけど……永田さん、まだ2、3年ですよね」
「うん。この施設できてまだ6年だしね。それに吉井さんは最初からいるから、永田さんより長いわ」
もしこれがほかの利用者さんの話なら特別なことではなかったかもしれない。ただ、“しっかりしている人”だと思ってきた永田さんの言葉だったから引っかかった。
「排泄のことはね、自分ではまだしっかりしていると思っているから、失敗した時のショックが大きいんだと思うの。プライドもあるし、隠そうとするでしょうね……物忘れのことも含めて一度ナースに報告して、往診の先生につないでもらうわ」
認知症は種類によって、薬で症状を抑えたり進行を遅らせたりできることもある。きちんと診てもらうに越したことはない。
けれど──今まで“できていた”人だからこそ、本人が受け入れないかもしれない。こちらが過剰に構えば、かえって混乱させてしまうこともある。だからこそ自尊心を傷つけないよう気を配りながら支えていく必要がある。
そう考えながら、私は永田さんの背中が見えなくなるまで廊下の先を見つめていた。
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詰所のカウンターで記録を入力していると、ナースコールが鳴った。パネルを見ると206号室。川原さんだ。おそらくトイレだろう。
川原幸子さんは82歳。認知症はほとんどなく、基本的には自立している。ただ、左半身に麻痺があり車椅子生活なのでトイレには介助が必要だった。
部屋を訪ねると、川原さんはトイレの前で車椅子に座ったまま待っていた。
「お待たせしました。トイレですね?」
そう声をかけると頷きながら、
「ごめんなさいね」
と申し訳なさそうに言う。
「大丈夫ですよ。気にしないでくださいね」
立ち上がりを手伝い、便座へ移乗する。
「本当にごめんなさいね。自分でできたらいいんだけど」
介助のたびに川原さんは同じ言葉を口にする。
「こんな汚いことさせて申し訳ないわ。本当、情けない。年はとりたくないものだわ」
「大丈夫ですよ。無理して転倒したら大変ですから」
私も毎回、同じことを答える。
同じ言葉を聞き、同じ言葉を返すのが正直しんどい時もある。けれど、人に下の世話をしてもらいたい人なんて、きっといない。
“情けない”
そう思う気持ちが、そのまま言葉になって毎回こぼれてしまうのだろう。そう考えると、ただ受け止めるしかなかった。
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川原さんはトイレに行きたい時、きちんとコールを鳴らしてくれる。それだけで、こちらとしてはずいぶん助かっている。
中には介助が必要だということを理解できていない人もいる。“自分でできる”と思い込んだまま立ち上がり、バランスを崩して転倒してしまう人もいる。
また人によっては歩行はしっかりしていても、尿意を感じ取れずに間に合わないことがある。リハビリパンツや尿取りパッドを使っていても、汚れたら替えるという考えに至らず、長時間そのままになっていることもある。
野田芳子さんがまさにそうだった。定期的にトイレ誘導の声かけをしても、
「ほっといて。自分で行きたい時に行くから」
と決まって断られる。トイレに向かうタイミングを見計らって部屋を訪ねても、
「入って来ないで!」
と拒否される。
自分で交換することはしない。結局リハビリパンツを替えることができるのは週に2回の入浴日だけというのがほとんどだ。
できないことが増えていく現実を、いちばん受け止めきれていないのは本人なのかもしれない。
そんなことを考えていると、事務所スタッフの梶さんから内線がかかってきた。
「あのね、今、橘さんの娘さんが来られてて、消耗品の請求の件で確認したいことがあるそうなの。そっちで対応してもらえる? 今から上がられるから」
……嫌な予感がした。




