第二話 たまたま
永田さん、もしかして──昼食を食べたこと忘れている?
しっかり者で、認知症状もなく物忘れもほとんどない。言い間違いや勘違い、思い込みなどは多少あるにしても、ついさっきの出来事を忘れるなんてことは、私の知る限り一度もなかった。
「あー、えーっと……」
言葉に詰まり思わず間が空く。私の戸惑った顔を見て、永田さんは怪訝そうに眉を寄せた。
「なに? ごはん、まだなの?」
そう聞かれ、一瞬言葉に迷う。それからいつも通りの声を意識して答えた。
「お昼ごはん、先ほど召し上がりましたよ。今日はブリの照り焼きでした」
「え……?」
永田さんの表情がそこで止まった。ほんの数秒の沈黙。けれどその沈黙は、やけに長く感じられた。頭の中で何かを探している──そんなふうにも見える。
やがて、
「……ああ、そうね。そうだった、そうだった」
少し大げさな口調だった。
「ちょっと今日は頭がボーっとしていてね。ハイハイ。わかりましたわかりました」
早口でそう言って、くるりと背を向ける。もう高山さんのことは眼中にないようだ。
部屋へ戻っていくその背中はいつもより少し丸く、ほんのひとまわり小さくなったように見えた。
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「帰ります」と言っていた高山さんは、部屋に戻ってからも、しばらくはカバンをぎゅっと抱えたまま落ち着かない様子だった。それでも他愛もない話を続けているうちに、その様子もいつの間にか薄れていく。テレビをつけると自然と画面に目を向けた。
もう大丈夫だな、と思って部屋を出る。永田さんのことは気になったが、仕事も一段落したのでそのまま昼休憩に入ることにした。
お弁当を手にスタッフルームに入ると、先に休憩に入っていた久世ちゃんが手を上げる。隣の席に座るとスマホの画面を見せながら身を寄せてきた。
「ほら、5月でもいいんやて」
「え? 何の話?」
「“五月晴れ”。確かに永田さんが言うように、本来は梅雨の合間の晴れの日のことらしいけど、“現在は5月の晴天を指す言葉としても使われる”て。ここに書いてるで」
「はは、そんなの調べたんだ」
「だってなぁ、みんな使ってる言葉やから、なーんか気になって」
大ざっぱに見えて意外とこういうことを気にするところは、なんとなく久世ちゃんらしい。
永田さんの名前が出たところで、私はさっきの昼食の話を久世ちゃんにしてみた。
「どう思う?」
久世ちゃんは少し考えてから口を開いた。
「うーん……関係あるかどうかわからんけど、先週やったかな。ゴミを回収しようと永田さんの部屋に入った時に、ちょっと……におってん」
「におった?」
少しためらいながら久世ちゃんは小さな声で言った。
「……便のにおいな」
私は仕事上の慣れなのか、この手の話を食事中でも平気でできるタイプだ。久世ちゃんも同じく平気なほうだが、周りには人がいる。
だからここからは、2人でヒソヒソ話のように小声で続けた──ほかの人から見れば、誰かの悪口か噂話をしているように映ったかもしれないけれど。
「それって、トイレ流してなかったとか?」
「いや、トイレのゴミ箱も見たけど、何も入ってなかったし、流し忘れでもなかってん。部屋全体が薄っすらとにおってたんよ。で、部屋のゴミ箱に、口をしっかりと縛ったビニール袋が捨ててあった」
久世ちゃんがちらっと何か言いたげに私を見る。
「それ、中身見た?」
「いや、中身は新聞紙に包んであってわからんかった。永田さんもそばにいてたし、とりあえず回収してあとから確認しようと思ってんけど、固く縛ってあったし中身も大体想像ついたしで、ま、いいかと」
「それって……」
「うん。大きさや外からの触り具合からみて、あれはズボンやね」
「……失禁か。汚してしまったんだね」
「多分」
「永田さん、その時どんな様子だった?」
「平気そうにしてたけど、ソワソワしてるのが見え見えやったわ。私が部屋を出るまで落ち着かん感じやったな」
「昼ごはん食べたこと忘れたり失禁したりって、今までなかったよね」
「ぼちぼち、きてしまったんかもな……」
「……認知症かぁ」
私が溜息まじりに言うと、
「まあ、年も年やしな」
そう言って久世ちゃんは立ち上がった。
「そろそろ休憩終わりやから先に行くな。またあとで」
と、仕事に戻っていった。
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ひとりになってお弁当を食べながら考えた。
排泄の失敗は自立している人でもたまには起こる。高齢になると便秘がちになり、下剤の影響で思いがけず失禁してしまうこともあるし、便意を感じても体がついてこなくてトイレに間に合わないこともある。
永田さんがどうだったのか、あるいは気づかないうちに失敗してしまったのかはわからない。どちらにしても、この事実は隠したかったのだろう。
これまでも同じことがあったのか、それもわからない。昼食のことも失禁のことも、どれも“たまたま”が重なっただけかもしれない。そう思うと、そう考えられなくもない。
それでも、今の永田さんにとって“認知症”という言葉は、もはや軽い疑いとして片づけられるものではないと感じた。
一度気になり始めると、さっきの沈黙や少し早口だった返事が思い返される。意味があるのかどうかもわからないけれど、頭の片隅に残ってしまう。
──ふと、父のことを思い出した。スーパーに行くと言って出たまま帰ってこなかったあの夕方。冷めきったコロッケの袋を提げて戻ってきた父は、どこに行っていたのかを最後まで思い出せなかった。
あの時の私は「たまたま道に迷っただけだ」と、どこかで軽く受け止めていた気がする。深く考えることを意識的に避けていたのかもしれない。
そばにいて毎日顔を合わせていると、かえって見えなくなることがある。父の時も私は“たまたま”を重ねて、そうやって目をそらしていた。
あの時にもっと早く手を打っておけばよかったのではないか。そんな思いがあとから何度も頭をよぎった。
だから、今回はこのまま済ませてはいけない気がした。同じ後悔をしないために、できることはしておこう──そう思った。




