第一話 「情けない」
「いい天気だなぁ」
昼食前のフロアでテーブルを拭きながら、誰に向けるでもなくつぶやいた。
大きな窓の向こうには、雲ひとつない空が広がっている。
「ほんまやなぁ。こんな日は、どっか行きたくなるわ」
そばにいた久世ちゃんが、ヒョイと私のつぶやきに乗っかってくる。
風間くんの一件以来、久世ちゃんの話し方は、以前より少しだけ丸くなったように感じる。
油断すると地が出て、大きな声を出してしまい、利用者さんを驚かせることもあるけれど、それでも以前ほどではない。彼女なりに、ちゃんと気をつけているのがわかる。
「こんな“五月晴れ”の日は、お弁当持ってピクニックとかええよな」
私も同意しようと口を開きかけたその時──。
「それは、ちょっとおかしいわね」
近くに座っていた永田さんが、静かに、でもきっぱりと割って入ってきた。
……おかしい?
ピクニックが?
私と久世ちゃんは示し合わせたわけでもないのに、同時に首をかしげた。
⸻
昼食前のフロアには、少しずつ人が集まり始めていた。永田さんの言葉に、周りの利用者さんたちも視線を向けた。
永田佐登子さん、87歳。少し背中は丸くなっているけれど、歩行器を使えば足取りはしっかりしている。認知症状はなく、年相応の物忘れもほとんど見られない。口が達者な、いわゆるしっかり者だ。そして、自分の知っていることを、人に伝えずにはいられない人でもある。
「何がおかしいんですか?」
笑顔で聞くと、永田さんは真顔になった。
「あなた、“五月晴れ”の本来の意味、わかっている?」
少し間を置いてから、続ける。
「5月の晴れの日のことだと思ってる人、多いけど、違うのよ」
「そうなんですか?」
お、久世ちゃん、敬語。えらいな。ちゃんと言葉遣いを意識してるのが伝わってくる。
永田さんは、少し得意げな表情であたりを見回した。
「“五月晴れ”の“五月”っていうのは、旧暦の5月のことなの。だから、今の暦で言うと6月になるのよ」
「あ、そうなんですね」
私は、これ以上話が長くならないことを祈りつつ頷いた。
「“五月晴れ”っていうのは、梅雨のまっただ中で、たまたま晴れた日のことなの。つまり、“梅雨の晴れ間”ってことなのよ」
諭すようでもある口調だった。
近くにいた利用者さんの何人かは、うんうんと頷きながら聞いている。理解しているかどうかは、正直わからないけれど。
──熱弁の途中で申し訳ないけど、そろそろ昼食の準備を始めないといけない。話を切り上げようと、
「さすが永田さんですね。ひとつ賢くなりました」
そう言って、その場を離れかけたが、
「私ね──」
あ、まだ続くのね……。
「私ね、以前俳句を習ってたのよ。賞ももらったこともあるわ。新聞社主催ので。地方紙じゃなくて、全国紙ね」
……長くなりそう。
ちらりと見ると、久世ちゃんも離れそびれたまま、眉間にシワを寄せて立っている。──久世ちゃん、顔、顔!
「それでね、俳句の世界では“五月晴れ”は梅雨の季語として使われるわけ。だから、たとえば……」
永田さんは、少し身を乗り出した。
「“五月晴れの空に鯉のぼりが映える”なんて意味の句を作ったら、それは間違いになるの。わかる?」
「ああ、なるほど。よくわかりました」
話を切り上げるつもりでそう言って、今度こそその場を離れようとした。
……のだけれど。
「最近の人は──」
永田さんがまた口を開いた。ああ、まだ続くのか……と思ったその瞬間、
「権田さん! ちょっと来てください! 大急ぎで!」
詰所カウンターの中から、舞ちゃんの声が飛んできた。
お! ナイス、舞ちゃん。状況を察しての声かけ。気が利くな。心の中で思わず親指を立てる。
「あら、呼んでるわね」
永田さんが残念そうに言った。
「ごめんなさい、ちょっと失礼しますね」
ホッとしながら、私と久世ちゃんは小走りでその場を離れた──やっと解放だ!
詰所カウンターに近づき、声を落として舞ちゃんに、
「ありがとうねー、助かった……」
と言いながらふと目をやると、舞ちゃんの右手首の先に、広口タイプの水筒がぶら下がっている。
「手、突っ込んで洗ってたら、抜けなくなっちゃったんです〜」
涙目で訴える舞ちゃん。
……ただ助けが必要だっただけね。まあ、こっちも助かったから、結果オーライだけど。
舞ちゃんの手が水筒になっている──私と久世ちゃんは思わず声を立てて笑ってしまった。
「笑いごとじゃないですよ〜」
「そやな、ごめんごめん」
そう言うや否や、久世ちゃんは舞ちゃんをカウンター奥のシンクへ連れて行き、中性洗剤を隙間から流し込んで、ゆっくりと手首を引き抜いた。冷静かつ素早い対応、あっぱれ。
「ありがとうございます〜。ホント、情けない……」
泣き笑いの顔でお礼を言う舞ちゃんに、
「あ、思い出したわ」
久世ちゃんが笑いながら言った。
「豆かなんか入った壺に手を突っ込んだサルの話。中の豆をぎゅっと握ったままやから、手が抜けんようになって、結局そのまま猟師に捕まってしもた、ってやつ」
「私、サルですか!」
また、みんなで大笑い。
笑い声がまだ残る中、時計に目をやると、やばい! もうこんな時間。
いけない、いけない。笑っている場合じゃない。仕事、仕事。
⸻
昼食が終わり、介助が必要な人を部屋に送り届けてフロアへ戻ると、高山さんが大きなカバンを抱えて立っていた。
「お世話になりました。そろそろ帰りますね」
来た。いつもの「帰ります」。夕方から言い出すことが多いのに、今はまだ午後1時を少し過ぎたところ。今日はずいぶん早い。
と、そこへ、コトコトと歩行器の音が近づいてきた。永田さんだ。昼食が済んで部屋に帰ったのに、またすぐにフロアに戻ってきたようだ。
永田さんはそのまま高山さんの前に立つと、一度ふーっと息を吐いてから口を開いた。
「あなた、また言ってるの? まったく……。ここがあなたの家なの。何度言ったらわかるのよ!」
強い口調に、高山さんの表情が、ぴたりと固まった。
「え? いや、母が待っているから……」
「だから、お母さんなんてもういないでしょうに。いい加減理解しなさい。いつもいつも同じこと繰り返して……情けないわ」
容赦のない言葉だった。高山さんは何も言い返さず、ただ黙り込み、落ち着きなく辺りを見回し始める。
まずい。完全に混乱モードに入る。何とかしなくては。
「高山さん、とりあえず一度お部屋に戻りましょう」
永田さんに背を向け、高山さんの肩にそっと手を添えて部屋へ向かう。その背中に、声が追いかけてきた。
「ちょっと、どこに行くの? もうすぐお昼ごはんでしょ!」
……え?
昼食は、ついさっき終わったばかりなのに。




