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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第八章 ほっとけなくて

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第六話 切なさと笑顔と冷蔵庫のプリン

夫婦がお互いそばにいる理由──。


「安藤さんが家に帰りたいって言った理由、本当は何でもよかったのかもね」


私がぽつりと言うと、2人は、ん? という顔でこっちを見た。


「ただ……ほっておかれるのが嫌だっただけで。それを頭の中で、“ご主人が病気だから”って形にしたのかなって」


少しの沈黙のあと、前田さんが言った。


「でもさ。心配してたのは、本当だと思うよ」


広瀬さんが、静かに頷く。


「理由はどうあれ、誰かを想って動いたってことよね。きっと」


「……そばにいる理由って、そんなに立派じゃなくてもいいのかもしれないね」


私がそう言うと、前田さんが、ほんの少し口元をゆるめる。


「うん。いないと落ち着かないとか。気づいたら探してる、とか」


ご主人の姿を見たあと、安藤さんは落ち着いた。繰り返していた「家に帰りたい」という言葉も、そのあとは一度も出てこなかった。


「今は穏やかだけど、また帰りたがるのは間違いないよね」


広瀬さんがそう言うと、前田さんは少し考えるように間を置いてから口を開いた。


「きっとそうでしょうね。ご主人はね、自分が会いに来ることで、かえって里心がつくんじゃないかと思って、面会を控えていたそうなんですよ。でも、今回みたいに会って落ち着くなら、これからは時々顔を出すつもりだって言ってました」


前田さんの言葉を聞きながら、私は窓の外に視線を向けた。


安藤さんがそれで落ち着くのか、ますます家に帰りたくなるのか、そんなことは今の時点では誰にもわからない。


ただ、そばにいてほしいと思える相手がいる──それだけで、少なくとも安藤さんは、“ひとり”ではないのかもしれない。ふと、そんな気がした。


「まあ、入居して1か月ですしね。様子を見ながら、やっていくしかないですよ」


前田さんはそう言って、軽く肩をすくめた。


ありきたりで、答えになっていないような言葉。それでも、きっとそれがいちばん正しい。


利用者さんの様子は、昨日と今日で簡単に変わる。特に、認知症があればなおさらだ。


だから私たちは、立ち止まらずに見続けるしかない。小さな変化を拾い上げ、言葉にして、分け合いながら。


「さて、帰りますか」


事故報告書を終えた広瀬さんがパソコンを閉じて言った。その音を合図に、今日という一日が、ようやく終わった。


答えの出ないことをいくつも抱えたままでも、時間だけは流れていく──そんな気がした。



翌朝、出勤すると同時に、私は夜勤明けの山野さんを捕まえた。昨日からずっと気になっていたことを聞くためだ。


「どうだった? 安藤さん」


「うん。さすがに歩き疲れたみたいで、ぐっすり眠ってたよ。朝も特に変わりなかった」


「そっか……よかった」


ほっと息をついてフロアを見渡す。北原さんと吉井さんが、いつもの席で並んで座り、顔を寄せ合って楽しそうに話している。


「あの2人、結婚するって言ってるの、知ってる?」


そう水を向けると、山野さんは苦笑いを浮かべて小さく頷いた。


「らしいね」


「昨日、娘さんたちが猛反対しに来てね。けっこう大変だったのよ」


「うん、それは聞いた。施設長からだけど。転居させるとか、かなり息巻いてたって」


「え……そこまで?」


娘さんはたしかに、転居も考えるとは言っていた。でも、本気で動くとは思っていなかった。


「ここだけの話だけどさ。北原さん、資産家らしいよ」


……ああ、なるほど。だからこそ冷静でいられなくなったのか。まともに取り合わなきゃいい話でも、万が一、婚姻届なんてことになったら──そう考えたら、気が気じゃなかったんだろう。


「でもね、そんなに心配しなくてもよかったかもしれないんだよ」


「え? どういうこと?」


「あ、ゴンちゃん、知らないか。吉井さん、来月退居するから」


「えっ!? 聞いてない!」


思わず声が裏返った。あの吉井さんが……。毎日のように私に子どもの人数を聞いてくる、あのルーティンがもうなくなるなんて。


「娘さんのご主人が転勤になって、それに合わせて近くの施設に移るらしいよ」


「それ、北原さんは……」


「言ってない。利用者さんの個人情報だしね。もちろん、北原さんの家族にも“お相手は出ていきますから安心してください”なんて言えるわけないからね」


「……吉井さん本人には?」


「娘さんは伝えてるみたいだけど、本人はあんまりわかってないかな。というか、すぐ忘れちゃうから」


それは……あまりにも切ない。


そう心の中でつぶやいた、その瞬間だった。


「それは切な過ぎます!」


背後から飛んできた大きな声に振り返ると、舞ちゃんが立っていた。


「まるでロミオとジュリエットじゃないですか!」


……いや、ちょっと違う。


「私、応援しようと思ってたのに!」


……それも、どうなんだろう。


「北原さん、歌は聞くに耐えないけど、いい人なのに!」


……褒めてるようで褒めてない。


「じゃあ、しばらくは遠距離恋愛ですかね?」


……知らないよ。


私は心の中でツッコミながら、再びフロアの二人に目を向けた。


変わらず、楽しそうに笑っている。その時間だけは、たしかにここにあるんだな──そう思うとやっぱり切ない。


「お父さん、シャツ汚れてるわよ」


別のテーブル席では、佐野さん夫婦が並んで座り、登志子さんが夫の弘さんの袖をティッシュで拭いている。弘さんは新聞を読みながら、黙ったままだ。


その様子を眺めながら、思う。


安藤さんが「家に帰りたい」と言った理由も、北原さんが吉井さんの隣に座る理由も、佐野さん夫婦が言葉少なに同じ時間を過ごす理由も──たぶん、どれも同じだ。


ほっておかれるのが、嫌だった。いないと、落ち着かなかった。気づいたら、探していた。それだけのこと。


安藤さんが落ち着いたのは、家に帰れると思ったからではない。ご主人が、会いに来てくれたからだ。それだけで、安藤さんの中の不安は、いったん居場所を失った。


北原さんと吉井さんも、この先どうなるのかなんて、誰にも分からない。それでも今、このフロアで並んで笑っている。それだけで、今は十分なのだと思える。


ふと、自分のことを思い出す。父に結婚の報告をした時、私は“その人と一緒にいたい理由”を、言葉にしなかった。


父は何も聞かなかったし、私も、あえて言う必要はないと思っていた。でも今思えば、もし聞かれていたとしても、答えられなかったのだと思う。


だけど今なら、少しだけわかる気がする。理由なんて、あとからいくらでもついてくる。


先にあるのは、ただ──ほっとけない誰かがいる、という事実だけだ。


「ふふふ」


急に舞ちゃんが顔をほころばせて笑った。


「どうしたの?」


「あ、声出ちゃってました? 実はね、今朝コンビニで期間限定の“自信満々究極のプリン”てのを買いまして」


……ずいぶん話が飛んだな。


私の怪訝な顔を無視して舞ちゃんがニヤニヤしながら続ける。


「今、冷蔵庫に入ってると思うだけで嬉しくなって!」


そう言って、また笑った。


──そこにあると思うだけで安心する……か。


「早く来ないかなあ! 昼休憩!」


本当に嬉しそう。


舞ちゃんの笑顔につられて、私も笑った。



第八章 完

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