第六話 切なさと笑顔と冷蔵庫のプリン
夫婦がお互いそばにいる理由──。
「安藤さんが家に帰りたいって言った理由、本当は何でもよかったのかもね」
私がぽつりと言うと、2人は、ん? という顔でこっちを見た。
「ただ……ほっておかれるのが嫌だっただけで。それを頭の中で、“ご主人が病気だから”って形にしたのかなって」
少しの沈黙のあと、前田さんが言った。
「でもさ。心配してたのは、本当だと思うよ」
広瀬さんが、静かに頷く。
「理由はどうあれ、誰かを想って動いたってことよね。きっと」
「……そばにいる理由って、そんなに立派じゃなくてもいいのかもしれないね」
私がそう言うと、前田さんが、ほんの少し口元をゆるめる。
「うん。いないと落ち着かないとか。気づいたら探してる、とか」
ご主人の姿を見たあと、安藤さんは落ち着いた。繰り返していた「家に帰りたい」という言葉も、そのあとは一度も出てこなかった。
「今は穏やかだけど、また帰りたがるのは間違いないよね」
広瀬さんがそう言うと、前田さんは少し考えるように間を置いてから口を開いた。
「きっとそうでしょうね。ご主人はね、自分が会いに来ることで、かえって里心がつくんじゃないかと思って、面会を控えていたそうなんですよ。でも、今回みたいに会って落ち着くなら、これからは時々顔を出すつもりだって言ってました」
前田さんの言葉を聞きながら、私は窓の外に視線を向けた。
安藤さんがそれで落ち着くのか、ますます家に帰りたくなるのか、そんなことは今の時点では誰にもわからない。
ただ、そばにいてほしいと思える相手がいる──それだけで、少なくとも安藤さんは、“ひとり”ではないのかもしれない。ふと、そんな気がした。
「まあ、入居して1か月ですしね。様子を見ながら、やっていくしかないですよ」
前田さんはそう言って、軽く肩をすくめた。
ありきたりで、答えになっていないような言葉。それでも、きっとそれがいちばん正しい。
利用者さんの様子は、昨日と今日で簡単に変わる。特に、認知症があればなおさらだ。
だから私たちは、立ち止まらずに見続けるしかない。小さな変化を拾い上げ、言葉にして、分け合いながら。
「さて、帰りますか」
事故報告書を終えた広瀬さんがパソコンを閉じて言った。その音を合図に、今日という一日が、ようやく終わった。
答えの出ないことをいくつも抱えたままでも、時間だけは流れていく──そんな気がした。
⸻
翌朝、出勤すると同時に、私は夜勤明けの山野さんを捕まえた。昨日からずっと気になっていたことを聞くためだ。
「どうだった? 安藤さん」
「うん。さすがに歩き疲れたみたいで、ぐっすり眠ってたよ。朝も特に変わりなかった」
「そっか……よかった」
ほっと息をついてフロアを見渡す。北原さんと吉井さんが、いつもの席で並んで座り、顔を寄せ合って楽しそうに話している。
「あの2人、結婚するって言ってるの、知ってる?」
そう水を向けると、山野さんは苦笑いを浮かべて小さく頷いた。
「らしいね」
「昨日、娘さんたちが猛反対しに来てね。けっこう大変だったのよ」
「うん、それは聞いた。施設長からだけど。転居させるとか、かなり息巻いてたって」
「え……そこまで?」
娘さんはたしかに、転居も考えるとは言っていた。でも、本気で動くとは思っていなかった。
「ここだけの話だけどさ。北原さん、資産家らしいよ」
……ああ、なるほど。だからこそ冷静でいられなくなったのか。まともに取り合わなきゃいい話でも、万が一、婚姻届なんてことになったら──そう考えたら、気が気じゃなかったんだろう。
「でもね、そんなに心配しなくてもよかったかもしれないんだよ」
「え? どういうこと?」
「あ、ゴンちゃん、知らないか。吉井さん、来月退居するから」
「えっ!? 聞いてない!」
思わず声が裏返った。あの吉井さんが……。毎日のように私に子どもの人数を聞いてくる、あのルーティンがもうなくなるなんて。
「娘さんのご主人が転勤になって、それに合わせて近くの施設に移るらしいよ」
「それ、北原さんは……」
「言ってない。利用者さんの個人情報だしね。もちろん、北原さんの家族にも“お相手は出ていきますから安心してください”なんて言えるわけないからね」
「……吉井さん本人には?」
「娘さんは伝えてるみたいだけど、本人はあんまりわかってないかな。というか、すぐ忘れちゃうから」
それは……あまりにも切ない。
そう心の中でつぶやいた、その瞬間だった。
「それは切な過ぎます!」
背後から飛んできた大きな声に振り返ると、舞ちゃんが立っていた。
「まるでロミオとジュリエットじゃないですか!」
……いや、ちょっと違う。
「私、応援しようと思ってたのに!」
……それも、どうなんだろう。
「北原さん、歌は聞くに耐えないけど、いい人なのに!」
……褒めてるようで褒めてない。
「じゃあ、しばらくは遠距離恋愛ですかね?」
……知らないよ。
私は心の中でツッコミながら、再びフロアの二人に目を向けた。
変わらず、楽しそうに笑っている。その時間だけは、たしかにここにあるんだな──そう思うとやっぱり切ない。
「お父さん、シャツ汚れてるわよ」
別のテーブル席では、佐野さん夫婦が並んで座り、登志子さんが夫の弘さんの袖をティッシュで拭いている。弘さんは新聞を読みながら、黙ったままだ。
その様子を眺めながら、思う。
安藤さんが「家に帰りたい」と言った理由も、北原さんが吉井さんの隣に座る理由も、佐野さん夫婦が言葉少なに同じ時間を過ごす理由も──たぶん、どれも同じだ。
ほっておかれるのが、嫌だった。いないと、落ち着かなかった。気づいたら、探していた。それだけのこと。
安藤さんが落ち着いたのは、家に帰れると思ったからではない。ご主人が、会いに来てくれたからだ。それだけで、安藤さんの中の不安は、いったん居場所を失った。
北原さんと吉井さんも、この先どうなるのかなんて、誰にも分からない。それでも今、このフロアで並んで笑っている。それだけで、今は十分なのだと思える。
ふと、自分のことを思い出す。父に結婚の報告をした時、私は“その人と一緒にいたい理由”を、言葉にしなかった。
父は何も聞かなかったし、私も、あえて言う必要はないと思っていた。でも今思えば、もし聞かれていたとしても、答えられなかったのだと思う。
だけど今なら、少しだけわかる気がする。理由なんて、あとからいくらでもついてくる。
先にあるのは、ただ──ほっとけない誰かがいる、という事実だけだ。
「ふふふ」
急に舞ちゃんが顔をほころばせて笑った。
「どうしたの?」
「あ、声出ちゃってました? 実はね、今朝コンビニで期間限定の“自信満々究極のプリン”てのを買いまして」
……ずいぶん話が飛んだな。
私の怪訝な顔を無視して舞ちゃんがニヤニヤしながら続ける。
「今、冷蔵庫に入ってると思うだけで嬉しくなって!」
そう言って、また笑った。
──そこにあると思うだけで安心する……か。
「早く来ないかなあ! 昼休憩!」
本当に嬉しそう。
舞ちゃんの笑顔につられて、私も笑った。
第八章 完




