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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第八章 ほっとけなくて

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第五話 そばにいる理由

フロアに戻った私は、安藤さんのことが気になりつつも、できるだけ普段どおりに業務をこなしていた。


「私がちゃんと見ていなかったから……」


広瀬さんは、すっかりしょげてしまっている。


「広瀬さんのせいじゃないよ。気づけないことなんて、誰にでもあるよ」


フロアにいたとしても、他の利用者さんの介助に入っていたら、どうしても目が届かない瞬間は生まれてしまう。


「でも、部屋に戻ったと思い込んじゃって……。ゴンちゃんがすぐ確認してくれなかったら、もっと時間が経ってたかと思うと……」


離設──利用者さんが無断で外に出てしまうことは、これまでも何度か起きている。


今でこそ全居室に“開放制限”がついていて、窓は少ししか開かないようになっているけれど、以前は、危険が高い人の部屋以外にはつけていなかった。


しかしある日、利用者さんのひとりが、開放制限のない別の人の部屋に入り込み、そのまま外へ出てしまったことがあった。非常階段を降りた先には鍵付きの柵があったけれど、それを乗り越えて──。その一件以来、全部の部屋に開放制限がつくようになった。


とはいえ、エレベーターの開閉のどさくさに紛れて1階に降りてしまう人は、今でもたまにいる。たいていは1階のスタッフや事務所が気づいて、未遂のまま終わるけれど。


今回は……不運と言ってしまえばそれまでだ。けれど、もし安藤さんが事故に巻き込まれたり、長い時間見つからなかったりしたら──そう思うとゾッとする。


だから、広瀬さんが落ち込む気持ちも、わからないわけじゃない。


──と、そこへ内線が鳴った。施設長からだ。


「安藤さん、見つかったから。今、前田くんが迎えに行ってくれてる」


「どこでですか!? 無事ですか!?」


胸の奥からホッとする気持ちが湧き上がる一方で、まだ不安が消えない。思わず、興奮気味に早口で尋ねた。


「派出所。無事みたいだけど、詳しいことはあとで」


そう言って、施設長はガチャッと電話を切った。


とにかく──よかった。見つかった。


広瀬さんと、近くにいた舞ちゃんにも伝えると、2人ともほっとした表情を浮かべた。広瀬さんは目を潤ませている。



30分も経たないうちに、安藤さんが前田さんに連れられてフロアへ戻ってきた。


「お帰りなさい!」


明るく声をかけてみた。


安藤さんの思考がリセットされ、「ただいま」といつもの調子で返してくれる──そんな展開を、どこかで期待していたけれど、甘かった。


「ここじゃあないのよ! 主人が病気だから家に帰るって言ってるじゃないの!」


強い調子で訴えるその様子には、家に帰ろうと施設を出たことも、連れ戻されたことも、しっかり理解している気配があった。


フロアでは夕食の準備が始まり、ほとんどの利用者さんは席についていた。前田さんは、まだ興奮の冷めない安藤さんを、ひとまず部屋へ連れて行った。


その時──女帝、三上ナース登場。安藤さんは見たところケガはなさそうだけれど、長い距離を歩いたはずだし、体調を確認しに来たのだろう。


三上ナースは仏頂面で、私の横を通り過ぎる時、わざとらしく大きなため息をついた。


「はぁ〜……」


「あなたたち、何を見ていたの? 離設なんか起こして」──そんな言葉が聞こえてきそうな、冷ややかな空気をまとわせて。


ただでさえ凹んでいるのに、追い打ちをかけないでほしいんですけど……。


そう思いつつも、夕食が始まりごった返すフロアを放っておくわけにはいかない。安藤さんのことは、前田さんと女帝に任せよう。


と、そこへエレベーターが開き、面会時間は過ぎているにもかかわらず、男性2人と女性1人が降りてきた。安藤さんの夫と、息子さん夫婦だ。


3人はまっすぐ安藤さんの部屋へ向かい、入れ替わるようにして女帝が部屋から出てきた。


女帝は私に近づき、


「特にケガも体調不良もないから、このまま様子見て。今日の夜勤者に、くれぐれも同じこと起こさないよう念押ししておいて!」


と、きつい口調で言い残し、足早にフロアを去っていった。


無事だったことは何よりだけれど……。確かに、不穏な状態がすぐに落ち着くかどうか、その不安は残ったままだ。


しばらくすると、前田さんと家族に付き添われて、安藤さんがフロアへ戻ってきた。


その表情は、さっきまでの険しさが嘘のように穏やかだ。そしてエレベーター前まで来ると、


「じゃあ、またね」


と手を振り、家族を見送っている。


……一体、何があったんだろう。こんなに落ち着くなんて。


前田さんが安藤さんをテーブル席に案内し、少し遅れたが夕食を提供した。


隣の席の大原さんが食事を終えたところで、


「あなた、遅かったわね」


と、穏やかに声をかける。安藤さんは会釈をしてから食事を口に運び始めた。


前田さんが私と広瀬さんのもとへ来て、


「今は落ち着いているけれど、また様子見ておいてください」


と言い残し、フロアを離れた。3階のリーダーなのに、ここまで動いてくれるのは本当にありがたい。


その後も様子を見ていたが、安藤さんは変わった様子もなく、食事を終えると同じテーブルの人たちとしばらく談笑していた。やがて満足そうに席を立ち、いつも通り自分の部屋へと戻っていった。



仕事を終えてフロアを離れる前、そっと安藤さんの部屋を覗く。椅子に腰掛け、テレビの画面にじっと目を向けている。その様子を見て少しほっとした。


あとは夜勤者に任せよう。今日の夜勤は山野さんだ──その安心感も、背中をそっと押してくれる。


事務所に行くと、先にあがったはずの広瀬さんがパソコンの前に座り、今日の安藤さんの事故報告書をまとめていた。


午後6時半。事務所スタッフはすでに退社していて、残っているのは広瀬さんと前田さんだけだ。


前田さんはフロアリーダーという立場もあって、業務が終わったあとも事務作業で残ることが多い。まして今日は安藤さんの件で予定も狂ったし、広瀬さんのことも気にかけているようで、帰る気配はなかった。


前田さんのそばに寄り、声をかける。


「お疲れさまでした。前田さん、今日はありがとうございました。いろいろ助かりました」


いつもなら軽口まじりのタメ口なのに、言葉が自然と丁寧になる。


「いや、そっちこそ大変だったでしょう。離設って、久々だったしね」


前田さんは、私を安心させるように、ちょっとイタズラっぽく笑った。


その隣で広瀬さんが、クルッと椅子をこちらに向ける。


「ホントにごめんね、ゴンちゃん」


謝らなくていいのに、また謝ってくる。


「謝る必要なんてないよ。大丈夫。安藤さんも今は落ち着いてるし」


そう返しながら、引っかかっていたことを前田さんに聞いた。


「安藤さん、派出所で保護されたって……お巡りさんが見つけたの?」


「いや、自分で派出所に行ったらしいよ。道がわからなくなって、聞きに行ったみたい」


そうなんだ……。いつも「家はすぐそこだから帰らせて」と言っていたから、安藤さんの頭の中では歩いて帰れると思っていたんだろう。実際の家は隣の市にある。歩いて帰れる距離じゃない。


「で、捜索願い出してたから、警察の人が連絡くれたってわけ。でも30分以上は歩いてたと思うよ。足腰は大したもんだよね」


それは私も同感だ。


「あ、それと、ここに戻って来てから、ご主人来られたじゃない? 私、余計に混乱すると思ったのに、逆に落ち着いたのにはびっくりしたんだけど」


すると前田さんは、淡々と答えた。


「ああ、あれね。安藤さん、ご主人が病気だから帰らないと、って思い込んでたじゃない? でも、ご主人が元気な様子を見てすぐ落ち着いたよ。それだけ」


「そうなんだ。それだけか……」


ほんの数時間前まで、夫を心配するあまり帰ろうとして、30分も歩いていた人が、元気だとわかって落ち着く。その切り替わりの速さは、むしろまた明日になれば夫が病気だと言い出して、“帰らなきゃ” という気持ちが強くなるかもしれない。


家に帰りたい──その気持ちがまずあって、その理由として夫が病気だからと後からつけ足しているようにも見える。


夫のことをほっとけない気持ちもあるだろうけど、自分がほっておかれているように感じる不安のほうが大きいのかもしれない。


夫婦って、いい時も悪い時も、結局は“そばにいる理由”を探しながら歩いているんじゃないか──そんな気がした。


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