第四話 消えた午後
胸の奥に広がっていた父への思いが、ふっと現実のざわめきに押し戻される。
北原さん一家のギスギスした空気が通り過ぎると、フロアにはちょうどおやつの時間のにぎわいが戻ってきていた。
佐野さん夫婦は、いつものように隣同士で座っている。妻の登志子さんはそわそわと落ち着かない様子で、夫の弘さんに声をかけ続けていた。
「お父さん、お茶はここよ」
「ほら、ドーナツ半分食べる? 甘いの好きでしょ?」
ひと息でも目を離したら心配で仕方ない──そんなふうに、絶えず世話を焼き続けている。
新聞を広げていた弘さんは、紙面から目を離さないまま、軽く手を振って言った。
「ちょっと黙っとけ」
優しい言葉ではないのに、不思議と怒っている感じもしない。この夫婦にとっては、これもごく当たり前の日常の一コマなのだろう。
ふと安藤さんに目を向けると、ハンドバッグを膝に乗せているものの、家に帰るという訴えはない。同じテーブルの人と談笑しながら、ドーナツを口に運んでいる。
1日中エレベーターの前から動かず、「夫が病気だから」と帰ろうとすることもある。でも、こんなふうに穏やかに過ごせる日もちゃんとあるのだ。
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私はおやつを食べてもらおうと、キクちゃんの部屋へ向かった。
キクちゃんは普段ミキサー食だから、おやつは他の利用者さんと同じドーナツではなく、ゼリーになる。
毎回、ゼリーかムースかプリン。飽きないかな、と思いつつも、別の施設ではドーナツをそのままミキサーにかけて提供しているところもあるらしく、それに比べればまだいいのかもしれない。
骨折していた左腕はギプスが外れ、見た目の痛々しさはなくなった。それでも──骨折の原因があいまいなままの感じがして、私の胸のどこかにまだ小さな痛みが残っていた。
「もう痛くない?」
そう言ってそっと腕に触れると、キクちゃんはニコッと笑って頷く。ホッとするような、申し訳ないような、なんとも言えない気持ちが胸の奥で揺れた。
けれど、私がスプーンでゼリーを口元へ運ぶたびキクちゃんが微笑む。そのたびに、その気持ちは少しずつ溶けていく。
ゆっくり食べてもらいながら、ふとタンスの上の写真立てに目がいった。
古いモノクロ写真の中で、優しそうな若い男性が穏やかに微笑んでいる。キクちゃんの旦那さんだ。結婚して5年ほどで亡くなったと聞いている。
キクちゃんには2人のお子さんがいる。娘さんの話では、夫を亡くしたあとは再婚もせず、助産師として働きながら二人を育てあげたのだという。
その小さな写真の中の笑顔を見ていると、きっとこの人は、キクちゃんにとって“どうしたって気にかけずにはいられない相手”だったのだろう、という気がした。
短い時間でも、その人との絆が人生の土台になることがあるのだな……と、キクちゃんの穏やかな表情を見てふと感じたのだった。
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フロアに戻ると、おやつを食べ終えた利用者さんたちが、思い思いに談笑したり、ゆっくりと部屋へ戻っていった。いつもの、午後のゆるやかな空気。
──の、はずだった。
「あれ? 安藤さんは?」
大原さんの隣に座っていたはずの安藤さんの姿が見えなかったので、近くにいたスタッフの広瀬さんに声をかけた。
「ほんとだ。いないわね。さっきまでいたと思ったんだけど……部屋に戻ったんじゃないかな」
「……ああ、そう」
そう言って、排泄介助の部屋を回ろうと一歩踏み出したものの、なにかが引っかかった。それを無視できなくて、私は引き返し、安藤さんの部屋に向かった。
部屋の前に立ち、ノックして扉を開ける。
──いない。
部屋は整ったまま、人の気配がまったくなかった。
一瞬、血の気が引いた。
広瀬さんと舞ちゃんに伝え、急いでフロア中を探し始めた。他の利用者さんの居室も確認する。廊下、浴室、職員用トイレ……どこにもいない。
各部屋のベランダに通じる窓は、開放制限がかかっていて5センチ程度しか開かないはずだ。もちろんベランダに出ることはできないが、一応確認してみた。
「やっぱり、いない……」
広瀬さんの声が、かすかに震えていた。
「もしかして──」
と広瀬さんが言った。15分ほど前、ほかの利用者さんの家族さんが面会に来たらしい。その家族さんがエレベーターから降りたタイミングで、安藤さんがすっと中に入ったのではないか──そう考えると説明がついてしまう。
安藤さんは身なりも整っていて、ハンドバッグまで持っていた。知らない人が見れば、面会に来た家族さんだと思うだろう。入れ違いにエレベーターに乗っても、きっと特に気に留めなかったはずだ。
嫌な予感が、じわっと背中を冷やした。
慌てて事務所と他フロアに連絡を入れ、施設内のすべてを確認してもらった。
だが──どこにも安藤さんはいなかった。
私は事務所へ駆け込み、中にいた梶さんに声をかけた。
「この30分くらいで、誰か出入りありました?」
内扉のロックを解除するのは大抵事務所の仕事だ。
「施設長にも聞かれたけど……そりゃあ何人か出たり入ったりしたわよ。でも、利用者さんらしい人は見てないと思うけど」
どこか不満を隠しきれない声で梶さんが言った。
梶さんは私と同じくらいの50代半ば。いつも淡々と事務仕事をこなしているように見えるものの、実際どこまで把握しているのかは掴みにくい人だ。
事務所に施設長の姿は見えなかった。どうやら外の確認に出ているらしい。
私は、駆けつけてくれていた3階のフロアリーダーの前田さんと一緒に事務所内の監視カメラのモニターを確認した。映像を巻き戻しながら、胸の鼓動が早くなる。
その瞬間──
「あ!」
前田さんと同時に声が漏れた。
画面には、家族連れが帰るために内扉のロックが解除されて扉が開き、そのすぐ後ろを、安藤さんがまるでその家族さんたちと一緒に帰るかのように、自然に外へ出ていく姿が映っていた。
施設長が戻ってきたので、すぐに状況を伝える。施設長は電話を取り、警察へ捜索願いの手続きを始めた。
その背中を見ながら、梶さんがぽつりとつぶやいた。
「そもそも下に降りてくるのを防げないなんて……」
まるで自分の責任ではないと線を引くような言い方が、引っかかった。
自分だって、安藤さんが出ていくのを見過ごしたじゃない……。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。安藤さんの安否が最優先なのだから。
「私にできることはありませんか?」
尋ねると、施設長は静かな声で答えた。
「警察には連絡したし、家族にも知らせた。あとは前田くんに頼んで、少し足を伸ばした範囲を探してもらう。権田さんや他の人たちは持ち場に戻ってください」
確かに、私が今できることは限られている。その言葉に従い、無事に見つかりますようにと心の中で祈りながら、フロアへ戻ったのだった。




